11月5日

2003-11-05 mercredi

委員会一つ、ゼミ二つ。
三年生のゼミは「百円ショップ」。院のゼミは「宗教」。
「百円ショップ」というのは私はまったく訪れたことがないスポットなのであるが、学生諸君は全員がご愛用の由。
はじめから100円と価格を決め、その小売り価格でメーカーが商品開発をするのだそうである。
たしかに「コロンブスの卵」的な逆転の発想である。
「衝動買い」ができることと「他店にくらべてお買い得感のあるものをゲットしたときの達成感」も好感されている秘密のようである。
なるほど。
もう一つ、人件費が安いということも経営の秘訣であるらしい。
なにしろ、「どれでも100円」なのであるから、個数を数える指があれば、あとはそれに100円を乗ずればよいのである。簡単でいいね。
品出しやセキュリティもみんな時給900円のバイトがやるらしい。

そういうことができるのは日本だけである。
正社員がろくにいない店舗が時給900円のバイトだけで経営できるという事実は、日本の「フリーター」諸君の提供する労働力のクオリティの高さを証明している。
彼らは監督者がいないからといって商品を略奪したり、レジの金を盗んだりしない。そんなことは思いもつかないのである。
去年のゼミ生だったヨシオカ君はマクドで顧客とのトラブルシューティング以外のすべての仕事をやっていたそうである。
時給850円の女子大生がハンバーガーの仕入れから迷子の世話から新人研修までやってくれるのであるからこそ、59円でハンバーガーを売るというようなことも可能だったのである。
そういうことがいかにインターナショナルな基準からして特異なことであるか、ということはあまりアナウンスされない。
外国から来た人が驚くのは日本の「自動販売機」の多さである。
管理者が誰もいないところに自動販売機がわんさと置いてあるが、自動販売機を壊して商品を盗む人間も、金を取る人間も、まずみかけることがない。
フランスのコカコーラ自動販売機なんて、ほとんど「要塞」のような作りになっていて、トラックで略奪されないように太い鎖で二重三重に壁に縛り付けてあり、お金をいれてから商品を取り出すまでに鉄の扉を二つもこじあけないと手が届かない。
誰も見ていないところに商品とお金があれば、「遅かれ早かれ盗まれる」ということがかの地では「常識」に登録されているわけである。
日本はそういうことがない。このセキュリティの確かさが社会のインフラとして整備されているからこそ、100円で商品を売ることが可能になるのである。
日本の若い人はモラルが低いと言う人が多いが、それはずいぶん一面的な決めつけではないかとウチダは思う。

「宗教」の発表は渡邊さん。
これは論じることの難しい論件である。
社会現象や歴史的事実として語るのは簡単だが、「私にとっての宗教的なもの」という視点を立てると、語るのがむずかしい。
いずれ「インターネット持仏堂」でじっくり語りたいと思うが、学校教育における宗教性の組織的排除が「ホラー」によってトレードオフされているという事態は、あまり健全じゃないような気がする。
「霊的な健康」は21世紀のキーワードだとウチダは思う。

授業を終えて帰ろうとすると、山本画伯がお仕事で大学に来ていたので、いっしょに帰る。
画伯がイタリアの本屋から出す限定版の版画に私の文章を添えるというお仕事に誘っていただく。
『レヴィナスと愛の現象学』のなかから私が「これぞ」というのを一文を選んで、それを仏訳したものをさらにイタリア語訳するんだそうである。
なるほど。
画伯は来年ミラノの個展を開くことになったそうで、ご成功をことほぐべく、わが家にて「ほうれんそう豚肉鍋」というものを作っていただく。
美味である。
八海山を酌み交わしながら、深更に至るまでしみじみと清談。

長崎の葉柳先生からひさしぶりの「長崎通信」が届く。
学生の知的資質をどう査定するのか、という深い問題をご提起されている。
武道を教えていると、人間の蔵している「資質」が査定のたいへんにむずかしいものだということがよく分かる。
一番顕著なのは、「さっぱり技が覚えられない人」の中にしばしば「大化け」する才能がひそんでいるということである。
『エースをねらえ!』の中で宗方コーチも同じことを述懐していたが、「どうして、これができないの?」という人はしばしば一般人とは「違う文法」で身体を動かしている。
その文法は、私たちが使っている身体文法よりもプリミティヴである場合もあるし、はるかに複雑な文法構造をもつ場合もある。
どちらにしても、「ある身体操作をその文法ではうまく翻訳できない」のである。
それが、なにかのきっかけで「変換規則」を発見するということが起こる。
そのときの「化け」方は感動的である。
そういうケースをいくつも見てきた。
「化ける」ことに失敗した人もいる。
それは私の査定が不適切だったからではない。
その人自身が自分に下した自己査定が不適切だったからである。
どれほど教師の査定が不適切でも、自分の才能を信じている人間は、それによって才能が枯渇することはないけれど、自分の「才能」に見切りをつけた人間の才能はそこで死ぬのである。
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