げっほげほげほ。げひー。
うー。今年の風邪はしつこいぜ。
熱も下がったし、鼻水もとまったが、咳だけ止まらない。
というようなことを毎日書いて、ちょうど1週間になる。
しかし熱はわざわざ体温をあげて体内のウィルスを殺害しているのであるし、鼻水やら痰やらは侵入者と差し違えた白血球の亡骸であるし、咳だって、体内に侵入せんとする異物をがんばって気管支くんが痙攣しつつ押し戻しているのであるから、これみな身体が私の命を守護せんと元気に活動してくださっている証拠なのである。
鼻水とてゆめおろそかにはしてはならぬのである。
病気になるのは生きている徴。
ちんとかんで、合掌してゴミ箱へ。
ありがたやありがたや。
でもはでもでもあのこのでもは、でもでもでもと言うばかり。(@守屋浩)
というフレーズにご唱和頂けるかたがこのホームページの読者にいくたりおられることであろうか。(ウッキーは知ってたりするんだよな。「自動車ショー歌」をフルコーラスうたえちゃう人だから)
しかし、最近のCMソングは古い。
このあいだTV見てたら、「ザ・バンド」と「バーズ」が続けて流れたので、おどろいた。
CMプランナーなんかは30代かせいぜい40代であろう。リアルタイムで聴いているはずがない。
どこであんな50代のおじさんおばさん向きの楽曲を探し出してくるのであろう。
胸がきゅんきゅんしてきたので、アマゾンで「昔の音楽」を買い求める。
アントニオ・カルロス・ジョビンとジョアン・ジルベルトを購入。
このところアマゾンで買ったアイテムというと、「小津安二郎全作品」「黒沢明ボックス」「石原裕次郎ボックス」、キャロル・キング、スティーヴ・ローレンスにアントニオ・カルロス・ジョビン。
完全に幼児退行している。
見ているビデオはこの3週間「キムタク全仕事」。
「HERO」見て、「Good Luck !」見て、「Beautyful Life」見て、いまは「ロング・バケーション」である。(見始めると、やめられない)
そういえば、キムタクドラマ関連音楽には絶対ナイアガラーがまじってるな。
山下達郎(Ride on time !)に大瀧詠一(「Love generation」のテーマ曲は18年ぶりのシングル「幸せな結末」。「ロンバケ」というタイトルだって、ぜったいそうだよね)だもの。
ということは、私ひとりが幼児退行しているわけではなく、メディアの一部に強固なる「幼児退行ケルン」が存在しているということである。
いずれゴールデンタイムの番組のテーマにキャロル・キングやが使われるのも時間の問題であろう。
ニール・セダカの Laughter in the rain なんかキムタクドラマのタイトルバックに使ったら、これ以上ないくらい「ぴたり」の曲想である。
キムタクくんと織田裕二くんは私がひそかに「平成の佐田啓二」と見込んでいる方々である。
小津先生がご存命であられたら、必ずや「笠智衆の孫娘に岡惚れしているちょっと弱気な同僚役」に起用したであろ。
小津先生なきために世界的名声を得る機会を逸されたことを私は彼らのために惜しむのである。
「不眠日記」のオガワくんが必死で『子連れ狼・三途の川の乳母車』を探していて、私に貸したまま帰ってこないのだが・・・と詰問されたので、書棚をごそごそ探したら、奥の方から出てきた。
まことにあいすまぬことである。
返す前にもう一度見る。
ウェイン町山先生によると、勝新太郎製作・三隅研次監督・若山富三郎主演の『乳母車』はアメリカでは「あの」ロジャー・コーマンが配給元になり、C級映画として大ブレークし、以後のいわゆる「スプラッタ」映画というジャンルはこれにインスパイアされて出現したものであるという。(今封切りのタランティーノの『キル・ビル』も『乳母車』オマージュ作品だそうである)。
勝新太郎は香港映画とハリウッド映画に決定的影響を与えたまことにレアな日本映画人なのである。
『乳母車』は手は飛ぶ、足は飛ぶ、耳は飛ぶ、もう全編、解剖学実習状態というすばらしい映画である。
これがいまTSUTAYAでは入手がむずかしいというのは日本映画にとってまことに悲しむべきことと言わねばならない。東宝はただちにDVD化をご検討願いたい。
勝プロつながりで、北野武のベネチア映画祭での大賞受賞をことほぎつつ、オリジナル『座頭市物語』を見る。これも三隅研次。
じつによい映画である。
子母澤寛の原作は20頁ほどの短編であるが、これに『天保水滸伝』をからめて、あれだけの尺に引き延ばした三隅の手腕はみごとなものである。
天知茂の平手造酒もまことにはまり役。
二人がため池で二度目に出会って、「どうだ、今日は供養に一献くみかわさんか」というあたりのやりとりはほんとうに渋い。
飯岡助五郎と笹川繁蔵の「大利根の決闘」は1849年天保15年の事件。明治維新に先立つこと19年。
ということは、シリーズのどこかで『座頭市対沖田総司』とか『座頭市、廃刀令破り』とか『座頭市、西南戦争100人斬り』とかあってもまるでおかしくないのであるが、実際にはシリーズが進むにつれて時代は逆行したようである。
『座頭市海を渡る』というのは、座頭市が高杉晋作かなんかといっしょに上海にでも行く話かと思っていたが、そうではなかった。(四国にゆくだけなの)
そういう意味では、ほとんどの場合歴史の流れは物語の流れより速いのである。
この物語と歴史のタイムラグに偏愛をしめしたのが、かのサム・ペキンパーであった。
『砂漠の流れ者』(どうでもいいけど、ひどいタイトルだなあ。原題は The Ballad of cable Hogue)も『ワイルドバンチ』も「西部劇」と「現代」が地続きであることの痛々しさを正面から描いた名画である。
『砂漠の流れ者』のラストシーンは主人公の伝説的ガンマンが、西部の街に最初に走ってきた「自動車」に轢かれて死んじゃうというまことにスパイシーなものであった。
なぜか日本には「時代劇」と「現代劇」の「あわい」を描くことにこだわった映画作家のあることを知らない。
北野武の『座頭市』がどういう映画か未見なので知らないけれど、実年齢からするとぼちぼち座頭市も明治維新にでくわしている頃合いである。もし、そういう時代設定であったら、「さすが北野武! 日本のペキンパ!」というところだけれど、どうなんだろ。
というわけで、今日は勝新版の『座頭市凶状旅』を見ることにする。
ちゃんと持ってるのよ。これが。
なことを書いているうちに、土日にあった身体運動文化学会のことを書くスペースがなくなってしまった。
土曜のシンポジウムがめちゃめちゃ面白かったのである。
高橋和子(身体きづき)・近藤洋子(民俗舞踊)・三上賀代(明るい暗黒舞踏)・岩下徹(BUTOH 系ダンスセラピスト)
というまったくどういう展開になるか分からないで集めたパネリストの関心がぐいぐいと一点に収斂する。
さすが小林昌廣先生の采配がおみごとでありました。
このシンポジウムはあまりに面白かったので、本になりそうである。ぜひお楽しみに。
と、いうことは、また一冊仕事がふえたっつーことか・・・
難波江さんとの共著『現代思想のパフォーマンス』も光文社新書で増補改訂再版ということになったし。
と、いうことは、あと二冊仕事がふえたっつーことか。
あ、もう考えるのやめて、座頭市見て寝よ。
(2003-10-26 00:00)