10月21日

2003-10-21 mardi

風邪を引いた。
土曜の午後から、鼻水がずるずる出ていたが、月曜の杖道のお稽古のときに、咳が出てきて、稽古の終わるころには熱まで出てきた。
あわてて風邪薬を買って家にもどり、午後9時に就寝。
午前11時半まで爆睡。
汗でぬれたパジャマを着替えて、熱は下がったが、咳はとまらない。
雨なので休講したいが、当日休講では、遠路はるばるやってくるゼミの学生院生たちに申し訳がたたない。(スズキ先生なんか浜松から来るんだから)
ぜいぜい言いながら登校。
本日の学部のゼミは「ストレスと家庭」。大学院のゼミは「資本主義の終焉と再生」である。

学部のゼミ出席者のうち「結婚して幸福な家庭が築ける」と信じているもの、8名中2名。
「父親がいないと家内が平穏」というもの7名。
「母と仲良し」というもの、全員。
どうも、彼女たちに「結婚なんかしてもろくなことはないよ」という考え方を刷り込んでいるのは母たちのようである。
もちろん、彼女たちとて仕事から帰ってきたとき誰かに「ぎうっ」と抱きしめられて、ほっこりしたい、という人間的な欲求はある。
でも、その相手は偕老同穴を誓った配偶者ではない。
「取り替え」を前提としたテンポラリー・パートナーなのである。
ううむ。

資本主義の方はなかなか刺激的な議論となった。
大学でこういう話をするときに、感じるのは「ビジネスの経験」の有無が、人間の社会観に大きな影響を与える、ということである。
当然にも、学生院生のあいだに(OL経験者やバイトをしたことのあるものはいくらもいるが)ビジネス経験者は絶無である。
だから、彼女たちが資本主義を論じるときの視点は「消費者」および「賃金労働者」に限定されており、「経営者」(いまの文脈でいうと「資本家」)という視点が構造的に欠落している。
マルクスをはじめあらゆる経済学者の著作には「労働者」と「消費者」の視点はあるが、「資本家」の視点はない。
そこで資本家は「ひたすら利潤の増大を追求するもの」というきわめて単純な定義でくくられている。
しかし、現実の資本家は、現実の消費者や労働者と同じく、「生身の人間」であり、単なる記号ではない。
彼らの行動にはしばしば「利潤の増大」以外のヒューマンファクターがおおきく関与している。
ご存じの通り、商法の改正によって、現在株式会社の創立には一円もお金がかからない。
つまり、実定的な生産手段など所有しなくても、ケータイ1本パソコン1台あれば、誰でも「起業家」になれる時代である。
「誰でも資本家」のその時代であるにもかかわらず、「資本家」とはどうふるまうべきものか、ということについての学的考察だけが抜け落ちている。
あるのは「カルロス・ゴーン経営を語る」とか「ユダヤ大富豪の秘密」とか、そんな「成功譚」ばかりだ。
資本家は産業資本段階であろうとポスト資本主義社会であろうと、利潤の追求「だけ」をしているわけではない。
それは『ベニスの商人』のころから変わらない。
それを捨象して、「資本家とは利潤を追求するものである」というふうに雑にくくるから、そういう理説を聞かされて育った人々は「自分が資本家だったら、どうふるまうか?」という問いを決して自分に向けないようになるのである。
おかげで、社会主義国の実験が証明したように、マルクス主義者に企業経営をやらせると、彼らは全員が「公共の福利」より「私利私欲」に走ることになった。
だって、しかたがないよね。
資本家というのはワルモノだ、と子どもの頃から教科書で教わっているんだから。
自分が資本家になったら、ワルモノになるほかないではないか。
社会主義経済が崩壊して、資本主義になったのは、システムのせいではなく、人間理解の不足のせいだと私は思っている。
「資本家はどうふるまうのが政治的に適切なのか?」という問いを左翼の学者たちは真剣に考えない。
それは「自分が資本家だったら、どうふるまうか?」という想像的な問いを自分に向けたことがないからだ。
でも、資本主義社会を現に生きている私たちにとって、それはとてもたいせつな想像力の使い方だとウチダは思う。