10月15日

2003-10-15 mercredi

掲示板に次のような書き込みがあった。

「194 ページで「この『二度目の不戦条約』に調印してくれる国が日本に続かないのは国際平和のために悲しむべきことだ」とおっしゃていますが、西修『日本国憲法を考える』(文春新書)によると、何らかの平和主義条項を憲法に設定してる国は 124 ヶ国あり、また「国際紛争解決の手段としての戦争を放棄する」という、日本国憲法 9 条 1 項や不戦条約の内容とほぼ同じ条項を入れている国もイタリア、ハンガリー、フィリピンなど日本以外に 7 ヶ国あるそうです。」

寡聞にして、私は日本国憲法第九条とほぼ同じ条項を憲法に掲げている国が七つもあることを知らなかった。
このご指摘を奇貨として、さっそく西修の本を注文すると同時に、とりあえずインターネット上での彼の発言を拝読することにした。
一読して、私がそのような事実を知らなかったのもどうやらやむを得ないということが分かった。
西によれば、樋口陽一、小林直樹、佐藤功、はじめ「(そして比較的多くの憲法学者にも)共通にみられるのは、日本国憲法の平和主義に対する過大評価である。日本国憲法のみが世界で唯一の平和主義憲法であるかのような錯覚に陥っているのかもしれない。」のである。(http://www.komazawa-u.ac.jp/~nishi/Nishi-text/Heiwa_cons1.htm)

日本を代表する憲法学者たちの多くが「錯覚におちいっている」のであれば、その著書や論考を読み慣れてきた私が彼らと同じ「錯覚」に陥っていたのもやむをえないであろう。
しかし、私は憲法学者たちが、彼らの本業のそもそも核心的な論件であるはずの「憲法9条の成立過程に対する認識不足」と「比較憲法的視点の欠如」を病んでいるとする西の指摘をそのまま受け容れることには若干の抵抗を覚えるのである。

私はイタリアやハンガリーやフィリピンが「平和憲法」を有しているということを今の今まで知らなかった。
むしろ、なぜ私はこの事実を知らずにきたのか、ということの方に私は興味がある(私はだいたいそういう考え方をする人間である)。
どうして、私は無知だったのか?
理由はすぐわかる。
それは平和憲法があるためにイタリアやハンガリーやフィリピンにおいて、国際紛争や自衛力にかかわる国内議論に鋭い対立があり、それが内政や外交政策に深く関与している、という事実を伝える情報に私が接してこなかったからである。

イタリアの軍事行動について私の記憶に鮮明なのは、ニューヨークのテロのあとの米国のアフガニスタン攻撃で、ベルルスコーニ首相が同時テロ発生後ただちに軍事報復作戦に参加する意向を表明して、米英軍への基地提供とイタリア軍派遣の方針を明らかにしたことである。イタリアは 2,700 人の兵員とヘリ空母ガリバルディなど海軍艦艇 4 隻、戦闘機、攻撃ヘリコプター、輸送機などの派遣を決定し、国会で圧倒的多数の承認を得たし、国内最大野党の左翼民主党(旧共産党多数派)も、中道左派連合の大半もこれに同調した。

ハンガリーの平和憲法についても、私はその現実的意義についてもほとんど何も知るところがない。知っているのは、その国が集団自衛権と共同防衛体制を標榜するワルシャワ条約機構の加盟国であり、ソ連という覇権国家の「衛星国」として、ひさしく外交・軍事的選択について主権を制限された国であったということだけである。(戦後、憲法改正が38回なされたことも、さきほど知った)

フィリピンについて私たちが知っているのは、19世紀末にアメリカの植民地となり、ついで日本の傀儡政権が置かれた時期も「亡命政権」はアメリカにあり、1944年のその独立は「アメリカ議会」で「独立法案」として決議された事実上アメリカの「属国」であったということ。朝鮮戦争、ヴェトナム戦争での米軍の前線基地であったこと。マルコス独裁時代は戒厳令下にあり、改正憲法は正式の国民投票なしに公布されたこと、それがマルコス長期政権を支えたこと、などである。

いずれの国についても、それらの「平和憲法国家」において、日本と類比できるような水準で、平和憲法をめぐる政治的・理論的論争がホットに展開したという報道を私はかつて目にしたことがない。
イタリアやハンガリーやフィリピンにおける憲法論争についてほとんど報じられてこなかったという事実を説明するためには、妥当な理由を私は二つつしか思いつかない。
一つは「平和憲法は日本固有のものである」と思いなす我が国の憲法学者およびメディア関係者が他国の平和憲法関連ニュースを組織的に遮断していた、ということである(私自身がそのような報道から無意識的に目をそらしていた、という可能性もある)。
いま一つは、平和条項をそれらの国の人々が「空文にすぎない」と思っていたので、どの国でもたいした論争がこれまでなかったということである。
私は第二の解釈の方が蓋然性が高いと思う。

「日本だけでなく、イタリアにもハンガリーにもフィリピンにも平和憲法はある。そんなことを知らないほど無知な人間に九条について議論する資格があるのだろうか」という疑念を呈する人がもしいるとしたら(いそうだね)、私としては、「イタリアやハンガリーやフィリピンにおける平和憲法をめぐる戦後60年間の議論と、それによるそれぞれの国の外交防衛政策の変遷について、まずあなたが知っている歴史的事実を教えていただきたい。もし可能であれば、その中のどの歴史的事実が日本国憲法第九条第二項の廃絶が喫緊の政治的オプションであるという政治的判断を基礎づけるのかも併せてお教え願いたい」と申し上げたいと思う。
もし、それらの国の中に憲法第九条第二項に類する規定を持っていたためにいちじるしく国益を損ない、ついには「滅びた国」があるという場合には、私もそれらの事例を「他山の石」とすることにやぶさかではない。
そうではないとしたら、いったい「平和憲法国家が他にもある」という指摘は何のために例示されたのか?

西はこう書いている。

「世界にいまや世界に、190以上の国家が存在する。成典化憲法を有している国家は、180を超える。結論から先にいえば、これら180以上の成典化憲法中、平和主義といえる条項を包含している国の憲法は、148におよぶ。このことは、わが国の安全保障や国際貢献の方策を考える際に、日本国憲法の特異性をもちだすことはできないことを示しているといえよう。」

だが、世界に平和主義を国是としている国が148あるという事実と、過去1世紀の戦争の歴史を比較すれば、「平和主義を空文として憲法条文に掲げること」には「何の意味もない」ということを何よりも雄弁に語っているだろう。
だから憲法問題の核心は条文の文言そのものにではなく、その文言のそれぞれの国における解釈の仕方にある、というのがこの事実から推論できるただ一つのことである。

私は日本の憲法条項に「特異性」があるとは思っていない。(本でも書いたとおり、九条は1928年の不戦条約の文言をほとんどそのまま再録したものであり、世界の「常識」である)。
特異なのは、日本がその「常識的な憲法」を「特異な仕方で運用してきた」そのマナーである。
日本は戦後58年間、その憲法を理論的なよりどころとして、海外において国軍が一人の外国人も殺していない希有の国であり続けている。
この「特異な」歴史的事実に着目することの方が、「不戦条約にならって平和憲法をもつ国は148もあるのだから、日本は特異な国ではない」という事実を強調することよりも議論を深めるに値するのではないか、と私は思うのである。

平和憲法をもっている国はいくらもある、という客観的事実の指摘のあとにはどのような政治的主張が続くのだろう。
「日本とおなじく平和主義を掲げる仲間の国が世界に147もあるのだから、心を強くもって第九条を護持しましょう」という主張はおそらく続くまい。
むしろそれは「日本も他の147の国と同じように、平和憲法を空文化して、『ふつうの国』になるべきである」という主張にいささかの論拠を提供することになるであろう。
私はそのような政治的判断には与さない。
私が述べているのは、いつものとおり、きわめてビジネスマインデッドなことである。
「ふつうの国」になることによって得るものと失うものと、このまま「ふつうじゃない国」でいることによって得るものと失うものについて、クールに計算すると、どちらが「お得か」ということを、みんなで考えましょう。ただそれだけである。
「特異な」憲法解釈を維持する方が我が国の国益にかなうと私は考えている。
その点で、私は教条的な護憲派ではない。
憲法九条第二項を廃し、第一項だけをほかの147の国と同じように「空文として読む」ことによって、日本国民がこのさきたいへんハッピーになれる、という展望について私を説得できるひとがいれば、私はただちに憲法改正に賛成するであろう。
残念ながら、今のところ、九条廃絶のメリットについて私を納得させてくれた人はまだひとりもいない。