『ため倫』の増刷が決まった。初版が18000部、増刷は5000部。トータル23000部ということになる。
人文系の文庫本としてはかなりの売れ行きですと角川のヤマモトくんがうれしそうに電話してきた。
洋泉社の『子どもは判ってくれない』も順調に売れているそうである。
本がうれるのは、書いた人間にとってはまことにうれしいことである。
私の書くものはひさしく「読者は5人」とよばれる大学の紀要論文だけであった。
読者が少ないことの主なる問題点は、5人のうちの1人から「つまらん」と言われるとがっくりへこみ、1人から「面白い」と言われると増長するという、客観的評価の不正確さに存する。
読者の20%といえばたいそうな数字だが、実際は一人なのである。
昨日も書いたことであるが、このような少数の母集団を統計的な基礎に取ることは自分の歴史的・政治空間的なポジションを「マップ」する上で、ほとんど役に立たない。
読まれないことの難点は、自分が書いていることが、この時代、この社会においてどんな「機能」を果たしているのかについての適切な認識が得られない、ということにある。
逆に言えば、読まれることの利点は、自分が書いていること、考えていることが、この時代、この社会において、どんな役割を担っているのかについての、かなり近似的な認識を得られることにある。
例えば、私は高橋哲哉氏から「ネオソフト・ナショナリスト」という呼称を賜ったが、これはなかなか味のあるネーミングであって、『ため倫』のような本を出さないと、誰かが私の「社会的ポジション」をひとことで示唆してくれるというようなことは起こらない。
加えて、私は同世代の男性を読者に想定してものを書いてきたのだが、実際には30-40代の女性がわりとコアな読者層を形成していることが知られてきた。
これはまことに意外なことであり、その年代の女性が私の書くもののどこに共感されるのか、私にはいまだにうまく想像することができない。
しかし、私のホームページ日記をずっと「ウチダ・イツキ」という女性が書いているものと思って読んでいた方もいる。
ということは、この日記は「女もすなる」日記と思って読むと「そうも読める」エクリチュールで書かれている、ということである(ためしに「そう思って」読んでみてください)。
つまり、私の感性と文体のかなりの部分は「女性ジェンダー化」しているということである。
まあ、あれだけながく「主夫」をしてきたのだし、そもそもが「元少女」であるから、納得のできない話ではない。
私は「話をより複雑にすることによって、話の主導権を握る」ということを議論の基本戦略としているのであるが、これは考えてみたら、男女の口げんかにおける女性の常套手段であった。
おでかけ前に支度に手間取っている妻にむかって、「おい、はやくしろよ、もう時間ねーぞ、いっつもおせーんだからよー」というようなことをイラチ夫が言う。
彼の頭には「残り時間と移動に要する時間」の引き算しか行われていない。
しかるに、妻は「着物と半襟の色相が合わない」というようなことで深い絶望の淵にいたりする。
「ああ、もう、いっそ洋服でいこうかしら。あら、それだとメークも全部変えないといけないし! きー」
というようなことになっているので、夫はつい
「いーじゃん、どうだって。どうせ、誰もおまえが何着てきたかなんて、明日になれば覚えてないんだから」
という決して口にしてはならないことを言ってしまい、般若の形相となった妻をなんとか予定時間に予定の場所にまで移動させるために、そのあと25回くらい土下座しなければならない仕儀に立ち至るのである。
これはほんの一例であるが、(なかなかリアルな実例だな)ことほどさように、女性は話を複雑にすることでしばしば圧倒的に不利な状況を一転させることができるのである。
私は女性にこの戦略を学んだ。
そういう学習の仕方をする男性はたしかにあまりおられない。その点において、私の読者の中に「ウチダの発想法のなかには『女性的なもの』がある」と道破された女性たちが含まれているというのはありそうなことである。
と、まあ、こういうような自己定位は、どのような読者に読まれているかという基礎データが与えられないと決してなされないものなのであるからして、本が売れるということは、私にとって「おのれを知る」ためのたいへんに教化的な機会なのである。
というわけですから、ウチダがさらに自己省察を深め、周囲のみなさまがたにとってあまりはた迷惑でない人間へと人格陶冶を遂げることができるように、なお一層、拙著大量お買いあげ行動に邁進されんことを関係各位にお願いすることで私からの挨拶とさせていただきます。
(2003-10-10 00:00)