10月9日

2003-10-09 jeudi

宝塚西高校から帰ってきたら、今度は県立葺合高校から「出前講義」の申し入れがあった。
ご指名での要請であるから、当然お受けする。
高校に行って、子どもたちに大学の先生の中には「こんな人」もいるということを告知するのは、悪いことではない。

私は大学に入る前に「大学の先生」というのを漠然と『わが青春に悔いなし』の大河内伝次郎みたいな人たちばかりだと思いこんでいた。
だから、入ってびっくりしてしまった。
彼らが学生をまるで「愛していない」からだ。
これは1970年入学という時代のせいかもしれないけれど、教師たちの半分は学生を恐れているか憎んでおり、残り半数は「おまえたちのことなんかに私はまるで興味がないんだからね」というしらけた顔を精一杯つくっていた。
その前にずいぶん学生にひどいめにあったのだろうから、それも仕方がないのかもしれないけれど、「大河内伝次郎」を期待していた新入生にとってはけっこう気分の萎える体験だった。

だから、私は教師として別に人にすぐれた点はないが、「学生に対してフレンドリーである」という点だけはいつも心がけている。
「フレンドリー」というのは、別に「ものわかりがいい」とか「やさしい」とか「好きなことをさせる」という意味ではない。
そうではなくて、相手にわかってほしいことをなるべく相手に理解できる言葉で、相手に届く語り口で語る、ということである。
パソコンのインターフェイスと同じである。

「ユーザー・フレンドリー」というのは、別に画面がきれいであるとか、演算が速いとかいうことではなくて(それもあるけど)、機械がユーザーが現になしつつあること、これからなすべきこと、決してしてはいけないことをリアルタイムできちんと伝達するということではないかと私は思う。
どれほど高性能なマシンであっても、「とりつく島がない」のではユーザーは泣くしかない。
ユーザーが「なすべきこと・してはいけないこと」を明確にわかりやすく指示し、ユーザーが「自分が今何をしているのか」ときちんと把握できるように「一望俯瞰的な視座」をそのつど提供すること、それが「フレンドリー」の内実だと私は思う。

学生に対するいちばん大切な知的サービスとは、「あなたはいまここにいて、この方向に向かっている」ということを知らせてあげることだ。
私はそれを「マップする」というふうに呼んでいる。
ハリウッド映画で見るアメリカの海兵隊では、新兵たちを訓練する鬼軍曹は、まず最初に彼らを「マップ」する。

「おまえらはゴミだ」

というのがどの映画でも軍曹の最初の言葉である。(『フルメタル・ジャケット』でも『ハートブレイク・リッジ』でもそうだった)
ずいぶんひどい言い方だが、新兵たちに「現在いる場所、なすべきこと、なしてはならないこと」を一言で印象づけるという点ではそれなり親切な情報提供であるとも言える。
できるだけ「大きな地図」の中に若い人をマップしてあげること、それが教師のいちばん大切な仕事だろうと私は思っている。

「君たちはリスクの多い場所をこれから通過することになる。気をつけるべきこと、なすべきこと、してはならないことを次に申し上げるから、よく記憶しておくように」

私が若い人に言う言葉は、だいたいいつもこんな感じだ。
私は彼らに無事に生き延びてもらいたいのである。
これからの時代を「無事に生き延びる」のは、それほど簡単なことではないから。