10月8日

2003-10-08 mercredi

兵庫県立宝塚西高校というところで「出張講義」をすることになった。
高校生のみなさんに神戸女学院大学を受験してくださいねとアピールする「営業活動」ではない。
聴衆の半分は男子である。
男子高校生に女学院の宣伝をしてもはじまらない。
そうではなくて、高校一年生のみなさんに大学とはどういうところかをお話しして進路選択の参考にしていただこうというのである。
うちの他に甲南、関学、武庫川女子大、神戸薬科大、大阪芸大、大阪外大など17校が来ている。
学科長からの業務命令を受けて、入試課長の荒木さんと連れだっていそいそと宝塚の山の中へ出かける。

与えられた論題は「文学部では何が学べるか?」。
進路選択にあたっての「ミスマッチ」を最小化するようにご指導頂きたい、いうことなのであるが、もちろん、そんな話はしない。
今日びの受験生はそのような悠長なことを考えている余裕はないからである。
今の高校生たちが受ける大学の中には在学中に「募集停止」になるところや卒業後「廃校」になるところが確実に含まれている。
18歳人口は1992年の205万人をピークに長期的に減り続け、今年が144万人。女性の合計特別出生率がこのペースで低下すれば(70年代まで2.1で推移していたが、2000年の出生率は1.36)21世紀なかばには100万を切り、80万人まで減るという予測もある。
同じ話を何度も繰り返すようであるが、子どもの数が60%減るということは、大学進学率が同率であれば、単純計算で半世紀後には60%の大学が不要になるということである。
今、日本には1200の大学短大があるが、そのうちの700校あまりが数十年後に廃校になる、というのが最も悲観的な予測である。
大学が適正なダウンサイジングを行ったり、地域と連携したり、生涯学習や社会人教育にシフトすれば、この数字はもう少し低めに抑えることができるだろう。
それでも、これからは、毎年いくつもの大学短大が募集停止、廃校に追い込まれることになるのは避けがたいのである。

そのような全般的状況の中で高校生諸君はどのように進路を決定したらよいのか?
率直に申し上げて、これまで進路指導の先生が依拠してきた進学データはほとんど使い物にならない。
というのは、そこにあるのは「これこれの偏差値であれば、これこれの大学のこれこれの学部に合格できる」という統計的資料だけで、「受かった後に、その大学が募集停止になったり、廃校になったりする可能性」についての経験的データは「まだ」存在しないからである。
志願者が殺到する大学は間違いなく「安全」である。しかし、倍率は高くなり、難関校となる。
逆に、誰でも入れる大学は「合格確実」ではあるが、将来的に消滅する可能性が高い。
となると、その中間の広大なるグレーゾーンに点在する中「自分が入れる大学」の中から「生き残る可能性の高い大学」をデータもガイドラインもない状態で選び出すという「前代未聞の大学選び」の試練が諸君を待ち受けていることになる。

参照できる判断枠組みのないところでなお決断を下さねばならないときに私たちは人生において何度か遭遇する。
諸君が受験のときに遭遇するのは、間違いなくその種類の最初の経験となるであろう。
そういう場合にどうやって判断を下すことができるか?
「判断を下すための客観的データがない場面で、なお適切な判断を下す」という背理の場で私たちが依拠しうるのは「直感」だけである。

「直感」とは、自分自身の身体が発する微弱な信号である。
身体が「こちらへ行きたい」ということをひそやかに告げるのである。

それは脳が提供する情報には必ずしも一致しない。というより、たいていの場合一致しない。
しかし、客観的な判断枠組みが機能しないときは、脳ではなく身体を信じた方がいい。
身体感受性の高い個体は自分のうちなる欲望を感知できる。
うちなる欲望が指し示す方位とは、諸君の蔵している秘められた知的・身体的なポテンシャルが開花する方向のことである。
それはせき止められた川の流れが、どこかで決壊してあふれ出すのと同じである。
あふれた川の水は必ず「下流」に向かう。
「欲望の方位を知る」とは、川の水にとって「下流はどちらか」を知るということと同じである。
欲望は「上流に遡行」したり、「水平移動」したりすることは決してない。
しかし、脳はしばしば誤って「上流」や「真横」を欲望の進むべき進路として指示することがある。
そんな方向に進んでも、何も起こらない。
だから、欲望については脳を信じない方がよい、と申し上げているのである。
脳が指示する主観的願望がたいていの場合誰かの願望の「模倣」にすぎない。それは諸君の欲望ではない。
自分が「何をしたいのか」を知る人間だけが、つまり「欲望の流れにとっての下流の方向」を知る人間だけが、判断において過たないのである。

もう一つたいせつなこと。
身体的直感が導く判断に無駄な仕事をさせないためには、自分のおかれている歴史的・空間的ポジションについての十分な情報を知っていることが必要だ。
例えば、今日、私が話したように、「今後、大学は淘汰の時代に入る」というような基礎的事実さえ知らない人間は、そもそも今後の大学選択において「直感」を作動させることが必要だということに気づかない。

「なんか、日本の教育って、やばくなっているような気がするなあ」

と感じるのは直感が正しく作動していることだが、そんなことは直感を使わなくても新聞をきちんと読んで、自分の頭で考える習慣があれば、誰にでも分かる(知性を使えば分かることに身体的リソースを用いてはならない。単価がぜんぜん違うんだから)。
広々とした視野をもった知性と、自分の欲望を感知できる身体的感受性、その二つがこれからの混迷の時代を生き延びるために諸君に必要なものだ。
健闘を祈る。

というような内容のものである。
これを30分ずつ二回やる。
高校生たちは「きょとん」とした顔をして聞いていた。
分かってくれたであろうか。

帰途、荒木入試課長と来年度入試の見通しその他についてシビアなお話をする。
来年度はまた18歳人口が5%ほど減る。その自然減以上に志願者減となれば、これは「危険信号」が点灯した、ということになる。
その場合は合格者数を絞り込んで、一気に大胆な「ダウンサイジング」に踏み切らねばならない。
マーケットがシュリンクする速度よりもダウンサイジングの速度が遅れたら、そのあとはもうひたすら合格点を下げて人数だけ揃える「滅びの道」しか残っていない。
今年もまた心臓がどきどきする入試の季節がやってきたのである。

さすがにぐったり疲れて阪急に乗っていたら、となりの女性が本を読んでいる。
ひょいと覗いたらアジサカコウジ画伯の懐かしい四コママンガが目に入った。
思わず、その見ず知らずの女性に向かって
「その本、おもしろいですか?」と訊ねてしまう。
その人がびっくりして本を取り落としたので、「あ、すみません、それ私が書いた本なんです」と説明する。
たいへん丁重な方で、「たいへんおもしろく読ませて頂いております。ホームページも読んでおります。愛読者です」とおっしゃって頂いた。
芦屋川までしばらくお話をする。
見知らぬ人が自分の書いた本を読んでいるのを見るというのはどういう気分のものであろうかと思っていたが、近似的に表現すると「見知らぬ人がるんちゃんの写真をしみじみと眺めている」感じであった。