10月7日

2003-10-07 mardi

『ため倫』はあちこちで品切れらしい。
「買いに行ったけど、ないよ」というメールが何通か届いた。
朝日新聞に早川義夫さんが書評してくれたおかげで、売れ行き好調とうかがっていたが、まことにありがたいことである。
『子どもは判ってくれない』も読んだ方々からは「意外に面白かった」という講評を頂いてた。
おそらく、こんなペースでじゃかじゃか本を出している以上、そろそろ「つまらんぞ」という批判的リアクションをも用意して、頂門の一針をウチダに下さねば・・・と思って読んだら、「意外に」面白かったということではないかと拝察するのである。
自分で読んでも「意外に面白い」。
私自身も、こんなペースで本を出していると、(私ほど自分の書き物に好意的な読者が読んでも)なお「つまらん」本を出すことになるのではないかと内心危惧していたのであるが、なかなかそうならないところがまことにしぶとい人間である。
しかし、ありがたいことにこれを最後に当分本は出ない。
たぶん半年ほどは静かであるから、毎度献本を送り付けられて「げ、また来た」とうんざりされていた方々はご安心下さってよいのである。
よかったですね。

本日はゼミが二つ。ぽけっと座って人の話を聞いて、ときどき半畳を入れていればよいので、らくちんである。
3年生のゼミは「テレビゲーム」。
ゼミ生の半数が「テレビゲーム」耽溺派であり、半数が「はじめからあまり興味がない」および「このままでは人間としてダメになる・・」と離脱した人々である。
耽溺派の方々も「こんなことをしていたら人間としてダメになってしまう・・・」という思いを抱きつつ「ああ、それでもはまってしまう、弱い私」を愉しむというやや屈折した享受のされ方をなされているようである。
興味深かったのは、テレビゲームに耽溺していると、「セーブ」と「リセット」というやり方に身体が慣れてしまい、現実の人間関係においても、「あ、まずいこと言ってしまった・・」というような場面で、「リセット」しようとして、コントローラーに手を伸ばしそうになる、という話。
テレビゲームをご存じない方のために解説すると(といっても私も今日説明してもらって理解したのであるが)、RPGでは主人公が死んだりすると、ゲームオーバーになって最初からやり直しということになる。最初からやり直して、今やった画面までたどりつくためには膨大な時間がかかるので、ゲームがある程度までクリアされた段階で、「次にやり直すときはここから」という「足場」を確保することができるのである。これを「セーブ」と言う(らしい、よく知らないけど)。
この感じは私にも分かる。
先日の国技館でのボクシング観戦のとき、佐竹のKOシーンのあと、「いまのKOシーンがスローで再生される」のをしばらく待っていた。
「あ、これはテレビじゃないから、『ただいまのKOシーンをもう一度』ということはないのだ」ということに気づくまで2秒くらいかかった。

大学院のゼミは岩部さんの「地域共同体」の発表。
地域共同体の再生が21世紀における不可避の選択である、ということについてはみなさん合意形成ができているのだが、「どのように、いかなる共同体を立ち上げるのか?」ということになると、明確なヴィジョンはなかなか提示できない。
そこで不肖ウチダが地方分権のための理論モデルとして暴論「廃県置藩」をお話する。(このネタは何年か前にこのホームページでも書いたことがあるが、今回「天皇制」についての宿題エッセイの中で、聴講生の渡邊仁さんがほとんど同じ提案をされていたので、びっくり。同志がいるということは、これは案外いけるかも・・・)

廃県置藩は150年前の廃藩置県の逆ヴァージョンである。
現行の都道府県を270余の「藩」のサイズに戻してしまうのである。
藩制のよいところは、行政単位がほぼ「徒歩でなんとかいける」距離に収まってしまうこと。
すべての藩に「元首」がいて、その方たちがそれぞれに自由な政治的実験を行うわけなので、結果的に「名君」と「暗君」の差がはっきり出てくる。
それら「賢君」の中から「大老」を選出して、現在の総理大臣、外務大臣の職務をご担当いただくのである。
すべての藩には「武芸指南役」がいて、それぞれに一流を構えている。それらのうちから技量抜群にして人格高潔のサムライを選び出して、その方に日本の防衛庁長官を引き受けていただく。
「剣術と国防は違う」というような賢しらを言う人間がいるやもしれぬが、兵法というのは、ほんらい「平天下治国家」経世の戦略であり、だからこそ、戦国時代は「槍一本で大名」というコースが設定されていたのである。剣技の理法と国政の理法が同一のものでなければ、そのようなプロモーションができるはずがないではないか。
さらにすべての藩には「大目付」というものがいて、官僚の腐敗、政商の暗躍などをチェックしている。全国270人の大目付の方々のうち、清廉潔白にして辣腕剛直の士を選んで、これを国の法務大臣に叙するのである。
さらに各藩には「勘定奉行」というものがいるので、そのなかで経済利殖の才に抜きんでた方を抜擢して、これを国の財務大臣ほかの経済閣僚にご就任願う。
以下、それぞれの藩政において卓抜の才覚を現した賢人を登用して、これをもって日本国政府の閣僚とするのである。
いまのように「当選回数・派閥の席順」とか、「橋本派を懐柔するために」とか「次の選挙の顔ということで・・・」いうような愚かな基準で選ばれた閣僚とは人材の厚みがちがう。
野に遺賢あり。
ほんとうは「野に遺賢なし」というのが『書教』のオリジナル成句なのであるが、日本の場合は悲しいかな遺賢は野にあって官には愚物しかいない。
この遺賢に政治的手腕を発揮してもらうための奇策が廃県置藩、すなわち「大政奉還」ならぬ「小政奪還」なのである。
ほかにも廃県置藩にはいろいろとメリットがあるのだが、長くなるので割愛。
国名は「日本連邦」(@渡邊仁)とし、国旗は日の丸のままだが、国歌は『青い山脈』に変更。
さらに、沖縄と台湾を連邦国家として、ここに「南島連邦」を創設し、日本と中国の「ビザなし相互乗り入れ友邦」とするという国際関係論的ウルトラ秘策もご用意してあるのだが、話が長くなるし怒り狂う人もいそうなのでこれも割愛。
いずれも一夕の妄言ではあるが、幕末の志士や明治の青年たちがこよなく愛したこの種の奔放なる政治談義をする知的習慣がわが知識人たちの間に払底したことにウチダは一抹の悲しみを覚えるのである。

さらに本日は一つ思いついたことがあるので、それも書き添えておく。
世に「オッカムの剃刀」という言葉がある。
イギリスのスコラ哲学者オッカムが「存在は必要なく増加してはならない」として、事象を説明するときには必要最小の原理で語るべきであると主張した故事による言葉であることはみなさんご案内の通りである。
正しい思考を妨げる「無用のひげ」を剃り落とせ、ということでこれを「剃刀」という。
しかし、ウチダの経験によると、人間にかかわる事象においては、「必要最小の原理」だけでは話が簡単になりすぎるという弊がある。
話は簡単すぎるとかえって進まない。
むしろ、話は適当に複雑な方が「話は早い」のである。
そこで、必要最小の原理にさらにちょっとだけよけいな原理を書き加える。
『子どもは判ってくれない』に書いたように、「同罪刑法的思考」に「時間」というファクターを書き加えると、「原理は増えるが話の通りはよくなる」というのはその好個の一例である。
「オッカムの剃刀」での「剃り残しのひげ」がちょっとあったほうが人間のありようとしては具合がよろしい、ということで私はこのような考え方のことを爾後「ブラウンの剃刀」と命名することにしたのである。
「ブラウン」の由来はもうおわかりであろう。

「あの、通勤途中のお忙しいところ失礼します。これでもう一度ひげ剃ってもらえます?」
「あれ、まだけっこう剃り残しがあるもんですね」