10月6日

2003-10-06 lundi

フランス語とゼミと体育と杖道のお稽古と四つ続く一週間でいちばんハードな月曜日である。
でも、一年生にフランス語を教えるのと、ゼミの口達者な四年生相手に負けじとほら話を吹きまくるのと、体育(杖道)で初心者に武道の基本的な身体技法を教えるのでは、脳の使用部位がぜんぜん違うので、別に疲れない。
杖道は先週、ゼミの卒論中間発表で TA のウッキーに代講をしてもらったので、生徒さんたちとお目にかかるのは今日がはじめてである。
杖を構えただけで、なかなかさまになっている人が何人かいる。

「杖であれ剣であれ、道具を使って稽古をするのは、道具を手にしても、ぜんぜん気にしないためである。杖はあるけど、ない。剣はあるけど、ない。杖や剣を手に持っていても持っていなくても、同じ動きができるようにするための負の条件づけとして道具はあるのである」

という話をいきなりするが、そういう話が「いきなり分かる」人もちゃんといる。
こういうのは運動神経や筋力とは何の関係もない。
ものごとの「常識」に「囚われない」心身の自由だけが、武道の稽古のうちに無限の快楽を見いだす機会を担保するのである。

体育のあとの杖道の稽古には合気道の「邪道1級」の一年生たち3名が新規に参加する。
みな、なかなか筋がよろしい。
「気の錬磨」のための一の杖の組杖までわずか1時間で全員がマスターする。
手順としてはこの「柔らかい杖」の遣い方をまず身につけて、身体が自由に動くようになってから、少し居合の稽古も入れて剣の扱いを覚えてもらい、それから全剣連の杖道形に入るつもりである。
この順序でやるのがなんとなく一番効率がよさそうである。

不思議な仕事が入る。
晶文社の安藤さんのご紹介で、松竹から電話があり、来月公開の『マトリックス3』の公式パンフにマトリックス論を書いて欲しいというご依頼である。
先般の『踊る大捜査線2』で映画評をするために映画をみると、愉しさが半減するので、ちょっと「やだなー」と思っていたのであるが、なんと!

「見てないんだけど、見てきたように書いてくれ」という非常にむずかしいご注文である。

なにしろ、ハリウッドから日本にまだ宣伝素材が何にも届いてないんだそうである。
フィルムはもちろん、スクリプトも、スチールも何もなくて、その段階で宣伝の準備だけはしなくてはならない。
そこで松竹宣伝部は「無から有を生み出す映画評論家」を探したあげくに、私のところにたどりついたのである。
「見てない映画の批評が書けそうなやつ」という条件で検索をかけて私を引き当てた松竹宣伝部の炯眼は多としなければならない(どこにも知恵者はいるものである)。
まことに残念ながら、私は見てない映画について、「それはおそらくこんな映画であろう」というようなデタラメならいくらでも書いて差し上げるが(映画館でパンフを買う人間はみんな映画をもう見終わっているので、私の「マトリックス3予言」を読んで大笑いしてくれるであろう)、「見てない映画の批評を『見てきたように書く』」という超高度なエクリチュールはまだ使いこなせないので(この機会にぜひ習得に励みたいものではあるが)泣く泣くお断りする。
まあ、考えてみれば、宣伝資料が揃っていて、試写会に映画評論家のみなさんをじゃかすかご招待できるような状況であれば、私ごときに公式パンフの原稿依頼が来るはずもないのである。はは。
しかし、おかげで『マトリックス3』を見る楽しみが倍加した。
うう、たのしみだぜ。
あ、そうだ。ホームページに封切り前に書いちゃえばいいんだ。

「『マトリックス・レヴォリューション』のラカン的読解」

「ネオはもちろんこの映画のラストシーンの示すとおりに、死なねばならぬ。これは物語の要求する構造的必然である。彼がモーフィアスの期待通り、The One すなわちすべての人々にとっての The Other『大文字の他者』となった以上、彼が父の審級に定位され、世界に象徴秩序をもたらしきたすためには、『死せる父』となるほかはないことをすでにフロイトは予言していたではないか。すべてはことのはじめから明らかであったのだ。『マトリックス』とは現実界であり、そこに遊弋するイカ状の疑似生物は『寸断された身体』の太古的イマーゴに他ならず、母胎を暗示する『ザイオン』(蜜と乳の流れる約束の地!)はすべての人々が相克的鏡像である想像界であり、ネオはその死によって象徴界への『命がけの飛翔』を成就したのである」

なんてね。
見てない映画についてのこの予言が当たってしまうところがコワイんだな、これが。

そういえば先般書いた「記憶」をめぐる論争について、心理学者である人間科学部の島井先生がホームページでスマートなコメントをしてくれた。
ここに謹んで転載させて頂くことにする。(公開しているテクストだから、いいですよね、島井先生?)

前にも書いたことがあるが、アメリカでもそうなのだが、日本でも、精神分析やそれに関連する知識を得たいと思って、大学で勉強しようと思うのであれば、芸術論や思想史などを専門としている先生に教わるのがもっとも適切な選択肢だと思う。現在の心理学は、心理学が誕生した頃の 19 世紀のフロイトの素朴な時代とは、まったく異なるものになってしまったからだ。

最近、精神分析の入門書として書かれた「世界一わかりやすいフロイト教授の精神分析の本」の著者の鈴木晶先生は、「寝ながら学べる構造分析」を書いている(他にもたくさん書いておられるが)、この大学の内田樹先生のおともだちで(どうりでタイトルの感じも似ているけど)、たぶん芸術論の先生だと思う。

一方、心理学の人の中には、「フロイト先生のウソ」というタイトルの本を書いた人もいるらしいし、古典的なのは、心理学を専門にしている人間なら知らないとは言えない人物であるアイゼンクの「精神分析に別れを告げよう」という本で、1988 年に出版されている(もう手に入らないかもしれないが)。世界的に見れば、アカデミックな心理学の主流は、精神分析にさよならを言ってしまったのである。

実習の授業の参考図書に挙げている「危ない精神分析」は、タイトルから見ると、同じように見えるが、内容は、記憶に関するものである。同じ参考図書に著書を挙げている、ぼくがファンのエリザベス・ロフタス先生が行なった社会的活動を紹介することを主な内容としている本である。

この本に関する感想を(時々読ませてもらっている)内田先生のホームページで拝見した。興味のある方は、そちらを見てほしいが、簡単に言ってしまうと、「にせの記憶」という問題が生じたのは、アメリカの精神科医やカウンセラーが、フロイトの言う「トラウマ」という意味を理解していないからで、内田先生は、どうして彼らが誤解するのかということに興味があるらしい。

ぼく自身は、フロイトがトラウマという概念をどうとらえているかという議論には興味はないが(時代によって変わっているようだし)、その一部分を拡大解釈したセラピーが社会的流行になることは、メンタルヘルスの問題として困ったことだと思っている。日本には無関係かというと、そのようなことはなく、「アダルトチルドレン」という本が溢れるほど本屋さんにあったのは、それほど昔ではない。

ロフタスを代表とする認知心理学が提起している問題は、フロイトがその起源になっており、現在もあいかわらず流布している「抑圧」という概念には科学的な根拠がないということである。記憶はアルバムではなく、私たちは、環境に適応していくために、どのような出来事もどんどんと忘れていく。そして、本当に大変な目にあった、あるいは、とてもうれしかった経験は忘れることがない。それは、今の自分の適応にとっても重要な資源であるからだ。

島井先生が「ファン」であるロフタスの本は私も共感をもって読んだし、「抑圧された記憶」理論がアブナイ思想だということについてもまったく同感であるけれど、「アカデミックな心理学の主流は、精神分析にさよならを言ってしまった」ので、いまごろフロイトだラカンだと言っているのは、「門外漢」だけだ、というふうに理解されそうな書き方をされると、それは「ちょっと待ってね」とあわてて言っておかないと大恩あるフロイト先生やラカン先生に会わせる顔がない。

人間の精神活動や欲望の構造について「アカデミックなアプローチ」と「非アカデミックなアプローチ」がある、というふうに私は思ったことがない。
哲学も文学も人類学も言語学も社会学も心理学も、およそ人間についての学はことごとく人間精神の活動と欲望の構造を解明したいという基本的な知的趨向に駆動されている。
文学研究や人類学のフィールドワークが人間の心理についての非アカデミックなアプローチであると私は思っていないし、もちろん島井先生もそうは思っていないはずである。
でも文学研究でも神話論でも説話論でも映画論でもどんな領域でも、およそ人間がアディクトしている「物語」の実に多くについてフロイトはその解釈可能性を拡げたと私は評価している。

私がフロイトの著作のうちとりわけ愛読しているのは、臨床医としての実証的な症例研究ではなく、『快感原則の彼岸』や『トーテムとタブー』や『モーセと一神教』のような、フロイト自身が「ここから先は純粋な思弁であるが・・・」というただし書きつきで書いている「暴走」する思考である。
「暴走」していることをフロイト自身が分かっていて、「じゃ、暴走します!」と宣言してからがーんとつっぱしるときの異常なドライブ感をウチダは深く愛している。(このへんは趣味の領域だけど)

心理学の領域では、あるいはフロイトと精神分析の理論はもうご用済みになってしまったのかもしれない。けれども、そのときに「ご用済み」にされた「フロイト主義者」たちは、ラカンがきびしく批判していたとおり、フロイトのことを実はあまり分かっていなかったんじゃないかと私は疑っている。
少なくとも「抑圧された記憶」理論のようにトラウマや抑圧を「存在的」に解釈するような粗雑な人間理解はフロイトとは無縁のものである。
島井先生が指摘されているとおり、フロイトがトラウマという概念をどうとらえていたかは永遠に決着のつきそうもない論件であるけれど、私はこの「終わりのない論争」から私たちはこれからも生産的な知見を汲み出しうると信じている。

それにつけてもラカンがもう少しわかりやすく書いてくれたら、ずいぶんいまの精神分析をめぐる知的付置は変わったんじゃないかとウチダは思う。
あんな書きようじゃ、「フロイトに還れ」って言われても、意味わかんないって、ふつう。