10月3日

2003-10-03 vendredi

教員研修会。
授業評価アンケートの集計分析報告と、教員評価システムの第二案の趣旨説明。
どちらも、教員の「査定」にかかわる案件である。
繰り返し申し上げているように、私は他人に自分の知性や人格を査定されるのが大嫌いである。
その私が「査定」システムの精密化のために骨を折っているというのは、まことに皮肉な巡り合わせである。
しかし、ほんとうは皮肉でもなんでもなく、私が「査定システム」の導入に反対しないのは、人間の能力が適正に「査定されうる」ということを私が信じていないからである。
私が信じているのは、すべての査定は限定的で誤りの多いものだということと、査定というのはそのような限定と過誤「込み」ではじめて成り立つものだということである。

教員の中には、大学教員の知的資質は決して数値化されうるものではない。いかに精密な査定も主観的な偏りと過誤をまぬかれないであろうということを「反対」の論拠とされる方もいる。
まことにその通りである。
しかし、「人間の知的資質は決して数値化されうるものではない。いかに精密な査定も主観的な偏りと過誤をまぬかれないであろう」というその主張をもし貫徹されるならば、同時に「入学試験の廃止」と「学生の成績査定の廃止」もあわせて主張されるべきではあるまいか?
それとも、教師の知的資質は測定不能であるが、受験生や大学生の知的資質は測定可能であるとお考えなのであろうか?

大学教師の本務の一つは「他人の知的資質の一部を、その人の蔵する人間的豊かさや人格的卓越性を捨象して、シビアに査定すること」である。
「avoir の活用は覚えられないが、道でおばあさんの手を引いてあげていたから、フランス語100点!」
というようなわけにはまいらない。
学生がどれほど人格高潔でも、どれほど強記博覧でも、avoir の活用が覚えられないようでは、フランス語初級は落第点である。
私たちがそういうシビアな査定ができるのは、その前提に「フランス語なんかできようができまいが、それはその人間の知的資質とは関係ない」という見切りがあるからである。

受験生や学生については、そのようなシビアな「見切り」ができるのに、自分自身とその同僚たちについては、その「見切り」をためらうのはなぜか。
それは、彼らがどこかで「大学の教師としての能力適性」とその人の知的資質とのあいだに「リンクがある」と信じているからではないのか。

私はそういうふうには考えない。
私は教員一人一人の「本学教員としての能力適性」の査定は、その人の蔵する(無限の)知的ポテンシャルとは「切り離して」測定可能であると考えている。
査定が査定として機能するのは(受験生や大学生の場合と同じく)、それが「きわめて限定的な能力」の「きわめて不完全な査定」であるという「断念」が前提にあるからである。
企業において「勤務考課」というものが成立するのは、それが社員の能力を正確に査定しているからではなく、社員のごく部分的な能力をごく不完全にしか査定していないということを、査定する側もされる側も「わかっている」からである。

私が本学の教員評価システムにおいてめざしているのは、「適正な勤務考課による、完全能力主義社会」の実現ではない(当たり前である)。
私が勤務考課の導入について「別に、するんなら、したらいいんじゃない」とのんきに構えているのは、受験生を選抜するときに「不完全な入試問題」を課したり、学生に成績をつけるときに「全人的な資質とは無関係な定量的能力」を測定するときと同じ理屈である。
いかなる評価システムをもってしても、査定される人間の全人的資質を公正に査定することはできない。
しかし、部分的な能力についてなら、これを近似的に査定することは可能である。
現に、私たちは新任人事や昇任人事において、当該教員の「研究業績・教育活動・行政能力」について、「きわめて不完全な査定」を行っており、それを少しも怪しんでいない。
どうして「すばらしい研究業績を挙げつつあり」とか「教育に情熱を注ぎ」とか「学内役職を積極的に引き受け」といった主観的な推薦のことばだけを根拠に、その教員の身分や給与や予算配分を決定しておきながら、「具体的にどういうジャーナルに何本論文を書いたのか」「どれほどの数の学生を指導しており、学生からの授業評価はどうなのか」「いかなる学内役職を担当しているのか」ということを聞こうとすると「そのような不完全な査定に基づいて身分や給与を決定するのは、いかがなものか」と懐疑されるのか、そのあたりのことが私にはうまく理解できない。
査定が可能なのは、「完全な査定は不可能である」ということについての合意がある場合だけである。
そして、よく考えれば当たり前のことなのであるが、それゆえに、「査定の完全性を信じない」人間の行う査定は、「査定の完全性を信じる」人間の行う査定よりもつねに正確なのである。