矢幡洋『危ない精神分析』を読む。
ジュディス・ルイス・ハーマンの『心的外傷と回復』に対する全面批判である。
ご存じの方も多いと思うが、1980-90年代にアメリカではカウンセラーの誘導によって「幼児期の性的虐待」の抑圧された記憶が「甦った」と主張する人々によって、多くの親たちが子どもに性的虐待で訴えられるという事件が相次いだ。
有名なのはジョージ・フランクリン事件。
これは父親が友人を強姦して殺害した記憶を衝撃のあまり抑圧していた女性が20年後にカウンセリングをうけているうちにその記憶が甦って、父親を殺人容疑で訴えた、という事件である。(一審有罪、二審で無罪)。
同時期に、多くの女性がカウンセリングによって「抑圧された記憶」が甦って、家族から性的虐待を受けた経験を告発して、当初、その多くが勝訴し、多くの父親が投獄された。
その後、これらの「甦った記憶」の多くがカウンセラーの誘導によって造られた「偽造記憶」であることが明らかになり、ハーマン派の「甦った記憶」理論は社会的断罪を受けることになった。
幼児期の抑圧された記憶がフラッシュバックするというのはヒッチコックの『マーニー』やウェルズの『市民ケーン』でおなじみの話形であるが、それをそのままクライアントに適用するというような荒技が駆使されるのは、たぶんアメリカだけである。
こういうことが起こるのは、(ひどい話だが)おそらくアメリカンの精神科医とカウンセラーの多くが「トラウマ」という概念を理解できていないからである。
アメリカ人はフロイトの「トラウマ」概念を宿命的に誤読する。
「トラウマ」というのは、被分析者(分析主体)によっては決して言語化できないが、その主体のパーソナリティ形成に決定的に関与しているような経験のことである。
つまり、トラウマというのは、「それが何であるか」を名指すことができない、ということによってはじめて「トラウマ」として機能するのである。
カウンセラーに「思い出せ、思い出せ」と煽られて、「あ、思い出しました!」というようなものはそもそも「トラウマ」とは呼ばれない。
そのあたりのことをおわかりでない方がアメリカには多いようである。
トラウマとは「パラシオスの絵」のようなものである。
「パラシオスの絵」をご存じない?
では、ご説明しましょう。
ゼウキシスとパラシオスという二人の画家が「どちらがより写実的な絵をかけるか」をめぐって腕を競ったことがある。
ゼウキシスは本物そっくりの葡萄の絵を壁に描いた。あまりに写実的であったので、空飛ぶ鳥がそれをついばみにきた。
ゼウキシスは自信満々にパラシオスを振り返った。
すると、パラシオスが壁に描いたの絵には覆いの布がかかっていて、絵が見えない。
「おい、パラシオス、もったいぶんじゃねーよ、はやく絵を見せろよ」
とゼウキシスがすごんだところで勝負がついた。
賢明な諸君にはもうおわかりだね。
そう、パラシオスは壁に「絵を覆っている布」の絵を描いたのだ。
ラカンがこの逸話から引き出した結論は次のようなものである。
「パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなくてはならない、ということです。(...) プラトンがまるで彼自身の活動と競合するものに対するかのように絵画に抗議するのは、絵は見かけであり、この見かけこそが見かけを見かけたらしめている当のものであることを我々に告げているからです。」(「絵とは何か」)
フロイトとラカンがあれほどの言葉を尽くして語りながら、アメリカの(多くの)精神科医がたぶんまったく理解できなかったのは、「トラウマ」とは「パラシオスの絵」だということである。
私たちにとってもっとも「リアル」に映現するものは、「リアルなものが現前することを抑圧している当のもの」である。
私たちには経験的に熟知されていることだが、そこに何もないときに、そこに何かがあると人に思わせるもっとも有効な方法は、「それを隠す」ことである。
抑圧があるとき、その抑圧の「下」には何もない。
すくなくとも、抑圧している当の分析主体が言語化できるようなものは何もない。
私たちに言えるのは、「抑圧している当の分析主体が決して言語化できない経験こそ分析主体にとってもっともリアルな経験である」という事実だけである。
というラカン派の「いろは」をハーマン派のセラピストは理解することができなかった。
彼らは「パラシオスの絵の下」には「現実」があると信じたのである。
私がむしろ興味をいだくのは、「どうしてアメリカの精神科医やセラピストはこのようなトラウマ概念を宿命的に誤読するのか?」という問題である。
間違いなく言えることの一つは、「セラピストは患者が治癒することより、治癒しないことからより多くの利益を得る」という冷厳な事実である。
ハーマン批判の先鋒であったロフタスの示したデータによると、「甦った記憶」セラピーを受けていた30名のうち、「セラピーの中で記憶が甦ったもの」24名。「甦った記憶」の最古の年代は平均「生後7ヶ月」。記憶が「甦ったあと」3年後にセラピー継続のもの30名(100%)。「記憶が甦る」以前に自傷行為のあったもの1名、「記憶が甦った」のちに自傷行為をするようになったもの20名(67%)。自殺願望については、「甦る以前」10%、「甦った以後」67%。「精神病院入院歴」は「甦る前」7%、「甦った後」37%。結婚していたものは「甦る前」77%、甦った後離婚したもの48%。「甦る前」に職業についていたもの83%、「甦った後」に職業についているもの10%。「甦る後」に家族との関係が疎遠になったもの100%。
このデータが示すのは、「幼児期の性的虐待の抑圧された記憶を甦らせること」によって、ほとんどのクライアントは得たものより失ったものの方が多かったということと、セラピストたちは失ったものより得たものが多かったということである。
私がアメリカのカウンセラーたちに対して聞いてみたいのは、「患者が永遠にセラピーを受け続けることによってカウンセラーが得ることのできる心理的優位と経済的利得が診断に及ぼす影響を最小化するために、カウンセラーは何をなすべきか?」という問いを、彼らがどれほど真剣に自分に向けているのだろうか、ということである。
(2003-10-01 00:00)