自己評価委員会。
学校が始まり、ぱたぱたと委員会が相次ぐ。
ほかの委員会はともかく、自己評価委員会は私が招集者であるので、ご多用なみなさまを集めておいて「今日は何の話なの?」というようなへらへらした態度をとることが許されない。
やむなく二ヶ月間まったく使用していなかった「自己評価委員長あたま」というものを作動させる。
すると驚いたことに、この委員会までに準備しておかなければならなかった書類が3点まだ未着手であることが判明した(ほんとうはなんとなく「そういう宿題があるのではないか・・・」という不安が夏休み中も兆していたのであるが、抑圧していたのである)。
必死になって「6月段階の脳の状態」を再生して、「そのころ考えていたこと」を解凍する。(6月以降は例の「トップ100校作文あたま」というものにシフトチェンジしていたので、「自己評価委員会あたま」は停止していたのである。不自由なものである)
ありがたいことに、ちゃんと解凍されて出てきたので、それをパソコンにばしばし打ち込んで会議資料を作成する。
教員評価システムは八月のセミナーで伺った早稲田、東海大、岐阜薬大のケーススタディからいろいろ学ぶところがあり、改善のアイディアが浮かんだので、それを提案させていただく。
ついでに理事会改革についての私案も提言させていただく。
契約教員・任期制についても提案する予定であったのだが、あまりに議題が多いのでこれは割愛。
「忙しいときには忙しいやつに仕事を頼め」という古諺があるが、これは他にも応用が効き、「はやく決裁したい事案があるときは、決裁を急ぐ事案を次々と提言する」というのも経験的にはなかなか有効である。
そういうふうに喫緊の議題が目白押しとなると、最初の方の案件についてぐじぐじ議論することが何となくきぜわしくなって、「じゃ、まあ、他に急ぎの案件もあることですし、この件はあれする、ということで・・」というわけのわかんない「まとめ」が雰囲気的には可能になるのである。
「とりあえずあれして」とか「それは、なにしときますから」とか「ま、みなさんそれぞれに、よく揉んでもらうということで」というのは、簡単には合意形成のならない複雑な問題を「処理」するときの便法である。
「あれして」おくと、その事案はしばらくぼんやり宙に浮いているうちに、なんとなく「風景」に同化し、いつのまにか「おでこのにきび」とか「めばちこ」とか「インプラントの前歯」とか「もののはずみで同棲しちゃった相手」などと同じように、「そういうものがある」ということに私たち自身がしだいに慣れてきてしまうのである。
不思議なもので、最初のうちはかなり違和感のある事案であっても、そうやって「あれして」おくうちに、「ま、あれも、なんだわな、そうそういつまでも、あれしておくままというのも、かっこつかんわな」というふうにシステムにビルトインされてゆくのである。
これはほんとうである。
ウチダは「患部特定・病巣摘出」型の問題解決を好まない。
むしろ、システムの「免疫力の向上・異物包摂機能の拡大」がいつのまにか問題の「非問題化」をもたらしきたす、という解決を好むのである。
これは社会理論としてもそれほど悪くないと私は考えている。
教員評価システムはいまの本学にとってある種の「異物」である。
私は大学というものを「ピュア」なシステムにしておくことがよいことだとは思わない。
あらゆる組織体は適度に「あいまい」で「でたらめ」であることを常態とする方が生存戦略上有利だからである。
私が教員評価システムを導入することに意義を感じているのは、別に斉一的な査定システムが必要だと思っているからではない(私がこの世でその有効性をもっとも信じていないものは「斉一的な査定システム」である)。
そうではなくて、それが本学の現在の「斉一的なシステム」に「乱数」を導入すると思うからである。
システムを活性化するためにもっとも有効なのは、実定的な「他のシステム」をそれに対置させることではない。
「乱数を発生する装置」をビルトインすることである。
委員会のあとは合気道のお稽古。
「邪道一級」の一年生五人がちゃんと来ている。
今日は「手」を教える。
武術は「足踏み・胴づくり・目付・足捌き・手捌き」と五段階の技術的階梯があるが、「手」はその中でもっとも精妙なものであり、なかなかこれを教えるところまでたどりつかない。
合宿でみんな結構からだの動きがよくなってきたので、今日は「ごほーび」に「手」を教える。
「おばけ・十円ちょうだい・空手チョップ」という手の変化による「入り身投げ」をしてみる。
みんなわいわい笑いながら稽古している。
スタンフォードに1年間留学していた飯田祐子先生が帰ってくる。
みんなで「おかえりなさーい」と唱和して、さっそく飯田先生に投げてもらう。
合気道の挨拶に言葉は要らない。
体の変化に応じ、呼吸に応じ、気の発動に応じる、という仕方でコミュニケーションはきちんと取れるのである。
よいね、合気道は。
さっそく稽古後、飯田先生とウッキーと三人で生ビールを飲みに行く。
飯田先生不在の一年間に女学院&合気道関連ワールドに頻繁に登場するようになった「江さん」「タチバナさん」「国分さん」「ドクター」「たにぐちさん」「だいはくりょく」「ナガミツ」「ミヤタケ」「マツムラ」などという人物について説明を求められるが、「ま、会えばわかるわな」。
飯田先生はぜんぜん変わっていない。
最後に「お見送り」の宴会を北野の「蓮」でしたけれど、なんだか、それが昨日のことのようである。
家にもどると光岡英稔先生からお電話がある。
光岡先生は8月の中国行きで、とうとう韓師範から王向斉意拳の「拝師」(中国語では「パイスー」と言うそうである)を許されたそうである。
おそらく光岡先生の意拳はこのさき米国と日本で21世紀の「コア武術」の一つとなるだろう。
再来週のWBA世界スーパーフライ級タイトルマッチを控える本田秀伸選手から光岡先生にぜひ観戦してくださいという伝言が届いたそうである。
4日の試合はリングサイドで三宅先生、光岡先生、K-1の角田さんと私の「四人組」が本田選手の応援をすることになる。(不思議なメンバーである)
三宅先生の腹案ではそのあといっしょに「ちゃんこ」を食べにゆく予定らしい。いったいこのメンバーでどんな話題が展開するのであろうか。わくわくするね。
光岡先生を取り巻く「時代の風」もだんだん加速してきているようである。
その翌日は多田先生と成瀬雅春師の「武道とヨーガ」のトークであるが、なんと、この会場には池上六朗先生も来られるのである。(光岡先生も時間があれば、ぜひ来て欲しいものである)
同一空間に多田宏・成瀬雅春・池上六朗という現代日本の「畸人」が集うわけである。(光岡先生も来られれば「四大畸人」だ)
この「濃さ」はすごいぞー。
この四人と個人的に面識があるのは、たぶんその会場で私ひとりなんだよね、これが。
この「歴史的出会い」の場に立ち会える人はほんとうにラッキーだと思う。
(2003-09-25 00:00)