9月24日

2003-09-24 mercredi

金井淑子さんから『岩波・新哲学講義 共に生きる』の執筆箇所のコピーが送られてきたので読む。
金井さんは今度岩波書店から出す『応用倫理学講座』の「性/愛」の巻の編集責任者で、私はその巻に「セックスワーク」について書くことになっている、という話は前にしましたね。(10月末締め切りだから、そろそろ書き上げないといけない)
その金井さんの論文はなかなか刺激的な考想に富んでいて、私は立ったりすわったり腕を組んだり嘆息をしたりしつつ興味深く読んだ。
そのなかの一つの論点について、私なりに考えてみたいと思う。
別に反論というのではなく(私は金井さんの議論には何の異論もない)、ただ同一の論点について、私は金井さんとちょっと問題の立て方が違う。同じ建物を別の角度から見るようなものである。

金井さんの共生論は「新たな親密圏」というキーワードの一つとしている。
近代家族解体論はフェミニズムの基幹的主張だが、この解体論には「強者の思想」あるいは「would be 強者の思想」という側面がある。
経済的・精神的自立をめざすことを無条件に価値とする場合、自立能力のない家族メンバー(幼児、老人、障害者、病人)などは近代家族の解体過程で無保護・無権利状態ににおいやられることになる。
もちろん「そういう弱者の面倒は行政がみるべきだ」という考えかたもできるだろうが、行政はベッドや食事は提供できても、ひとりひとを抱きしめ、ひとりひとりに自尊感情や承認感覚を扶植することはできない。
このような弱者への配慮のためには、抑圧的な近代家庭に代わる保護と癒しの場がなくてはすまされないだろう。
たしかに近代家族は多くの点で抑圧と虐待の温床となっており、おそらく現時点では「家族によって傷つけられる」ことのマイナスの方が、「家族と共にあることによって癒される」ことのプラスを凌駕しているというのも悲しいかな事実である。
しかし、家族の中で深い傷を負い、自尊感情をはぐくむ機会を失ったものは、家族から離脱して浮遊するだけでは、少しも救われない。

「自尊感情を解体されたまま不安や嗜癖問題を抱えていることも少なくない彼らにとってこそ必要なのは、彼らの自尊感情を育む場であり、また自己回復のためのさまざまな物語であろう。さまざまな事情で家族と距離をとったり家庭を捨てざるをえなかった者たちの新しい居場所、自己解放の場、疑似家族空間ともいうべき場と関係性が、社会の中でさまざまなレベルでいま問われているというべきなのだ。」(77頁)

以上のような問題意識をふまえて金井さんは近代家族に代わるオルタナティヴな「親密圏」、共生の場を望見する。
私はこの理路には異論がない。
私は骨の髄までビジネスマインデッドな人間なので、どのような社会制度についても、「この制度は、いかなる人類学的起源を有するものか、これまでどのような歴史的使命を果たしてきたのか、現状では、どのような点で制度疲労や機能不全を起こしているか、どのへんを補正すれば使い延ばせるか、どのあたりのタイミングで修理を断念して『新品』に乗り換えるか」というふうな問いの立て方をする。
私がフェミニズムの議論で不満なのは、フェミニストが家族制度の「人類学的起源」「歴史的使命」にあまり興味を示さないということと、「補正と買い換えの損益分岐点」という計量的な問題を無視しがちなことである。
自動車やパソコンを買い換えるときには、「まだ使える」のか「もうダメ」かについて、けっこう真剣な計量的思考をされるはずの人々が、こと社会制度については、いきなり「廃絶」という革命主義的方針を好まれるのは、ウチダには理解しがたいことの一つである。
金井さんは「革命主義的フェミニスト」ではなく、制度の劇的なシフトによって一挙に公正で平等な社会を実現することを望む綱領的立場には懐疑的なまなざしを送っているように見受けられる。
金井さんが「とりこぼし」を恐れているのは、勇ましい家族解体論が見落としがちな、「家庭内弱者の救済」、「女性の身体性」、「子どもを育てる場における性的差異の意味」といった問題である。
金井さんはそのような言い方を慎重に避けているけれど、端的に言えばレヴィナスのいうところの「女性的なもの」、柔和さ、ぬくもり、癒し、受け容れ、寛容、慈愛、ふれあい、はじらい、慎み深さ・・・といった「贈与的ふるまい」の重要性からおそらく金井さんは目をそらすことができないのである。それがどれほど近代家族イデオロギーの中で手あかのついてしまった概念であったとしても、やはり親しみの場は、そのような「女性的ふるまい」抜きには成り立ち得ないだろう。
このような考想を、構築主義者たちは「女性性を実体化する本質主義」としてばっさり切り捨てるだろうが、私は自分自身が「近代家族」を一度は子どもとして、一度は親として営んだ経験から、また「武道の師弟関係」という疑似家族的な親密圏において「学問的な師弟関係」という競争的序列的な人間関係の中で負った心理的な傷を癒され自尊感情を回復できた経験から、「女性的なもの」は親しみの場の立ち上げのためには、なくてはすまされないということを確信している。
この三種類の「親密圏」において「女性的なもの」の機能を担ったのは、最初は母であり、二度目は「母」としてふるまう私自身であり、三度目は「師」であった。
「女性的なもの」はレヴィナスの言葉に従えば「存在論的カテゴリー」であり、経験的な性別にはかかわらない。
「女性的なもの」の本質は「無償の贈与」である。見返りを求めない贈り物のことである。
私は金井さんのいう「親密圏」はこの「無償の贈与」の原理に基礎づけられるものだろうと思う。
レヴィナスは「女性的なもの」の原像を「ツィムツム」(収縮)に見ている。
ユダヤ神秘主義の創造説話によると、神の最初の行動は「おのれ自身のうちに退去し、そこに空間を作った」ことである。つまり、神さまが席を立って、その空席を「はい、どうぞ」と被造物に贈ったことによって天地は始まったとユダヤ神秘主義は教えている。
おのれ自身のうちへの「ひきこもり」。日の当たる場所からの退去によって、被造物たちが温もりを得られる「場」を作り出したこと、それが神の最初のみぶりである。
レヴィナスはこの「女性的なもの=神的なもの」のうちに、人間性と社会性、つまり共生のチャンスを根源的に基礎づける「倫理の最初の一撃」を見いだした。
しかし、この「無償の贈与」という考想はいまのフェミニズムからずいぶん遠いものであるように私には思われる。
というのは、「私は無償で贈与する」という主体的な言明は倫理性と親密性を基礎づけるけれども、「あたなは無償で贈与すべきだ」という言明はいかなる倫理性も親密性も基礎づけることができないからである。
「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言明ほど非倫理的なものはない。
近代家族制度が非倫理的であるのは、「女性的なもの」(許すこと、受け容れること、譲ること、与えること、引き下がることをその本旨とするような存在性格)をある社会的立場の個人に「自然に内在するもの」とみなしたり、「制度的に要求しうるもの」とみなしたことに理由がある。
「女性的なもの」は中立的な概念ではないし、他人に求めるものでもない。
それは経験的性差にかかわりなく、「私」が他者に先んじて引き受けるものである。
そのような根本的な自他の非対称性を前提とした倫理性の原理は、「差異の解消」や「完全な平等の実現」の原理とはなじまない。
どちらがいい悪いということではなく、「すれ違う」しかないということである。
私が金井さんの紹介する性差別と障害者差別、弱者差別についてのフェミニズムの諸理説を一瞥して感じたのは、すべての思想運動が「被収奪感」に基礎づけられているということである。
「ほんらい私に帰属すべき社会的リソースが私から制度的に収奪されており、誰かが不当に受益してる」という「被収奪感」が、すべての「マイノリティ」の権利要求の基本感情をなしている。
もちろん、社会的公正の実現、正義の成就は人間が人間的であるために必須のものである。
しかし、それは原理的に「喧嘩腰」で語られる他ない種類の要求である。
だから、「正義の実現」が「被収奪感を感じている私」を基体とする限り、それに基づいて構築されるいかなる社会理論も、この世界に「親密圏」を立ち上げることはできないだろうと私は思う。
金井さんの議論がどこか苦しいのは「正義の実現」と「親密圏の立ち上げ」を同時に遂行できるような理論的実践的水準を探り当てようと悪戦しているからであるように私には思われる。
悲しい話だが、正義の実現と無償の贈与は両立しない。
正義とは「奪われたものを奪い返す」ことを求め、無償での贈与は正義に悖ることとされる。
正義は赦すことを許さない。
人間の人間性は、おそらくこの「社会的リソースの公平な配分」と「非相称的な贈与」に引き裂かれてあるという根源的な矛盾のうちに存する。
収奪は収奪、贈与は贈与である。
この二つは論理的に同一次元には存在することができない。
それを両立させるのは、矛盾を矛盾として生き、引き裂かれてあることを存在の常態とするような人間の成熟だけであると私は思う。

武道の稽古をしていると、不思議なことがいろいろわかってくる。
術において相手の「虚を衝く」ということができるのは、相手と私の間に「親密性の場」が成立する場合だけだ、というのもその一つである。
私と他者が敵対的な個体にとどまっている限り、「術」はかからない。
私たちが稽古している「抜き」や「浮かし」や「聴勁」や「気の感応」といった術理は、まさしく自他の「親密圏」の創出のためのものである。
「先を取られる」と、私たちの身体は自動的に「先」を「追う」ようになる。
それは甲野先生の術語を借りれば「身体がセンサーモードにシフトする」ということであり、皮膚感覚の感受性が最大化し、筋肉がゆるやかに伸び、目が半眼に閉じ、呼吸が深くなり、相手を「受け容れる」体制になる、ということである。それはある種のエロス的な体感に近い。
武道はなんとこの擬制された自他の親密性を利用して、相手を制し、傷つけ、殺す術なのである。
「術がかかる」のは、私と他者が「ひとつ」になったときだけである。
相手が私の身体の一部になったとき、つまり私の手足のような、私自身の分かちがたい、親しみ深い一部になったときにのみ、活殺自在の術は遣うことができるのである。
家族やエロスの場が親密圏であると同時に壮絶な相克と権力性の場ともなるのは、おそらくこの背理が人間の宿命だからではないか。
ならば、この背理の理論的「解決」をではなく、その背理をどうやって「生き延びるか」という実践的マナーを吟味することの方が私たちにとってのより緊急な思想的課題ではないのか。
私はそんなふうに考えるのである。