9月7日

2003-09-07 dimanche

静かな一日。
『困難な自由』の翻訳を午後6時まで。予定よりずいぶん進んだ。
あまりに集中してやったので、肩がばりばりに凝る。
翻訳の困った点は、レヴィナス先生の叡智の文章に感動したあと、「それでは」と手を止めて、今度は自分のレヴィナス論に戻ると、そのあまりの「質的格差」に茫然自失してしまう、ということである。
私とレヴィナス先生のどこが違うか、というと傲慢な自問に思えるかもしれないが、人間の出来がまるで違うというようなことはひとさまから言われなくても分かってる。
いちばん決定的な違いは「使命感」の重みである。
レヴィナス先生は600万人の死者を背負って語っている。
それも単に戦争犠牲者を弔うというだけのことではない。
先生は前代未聞の「弔い方」によってこの死者たちを呪鎮するという仕事を引き受けた。
というのは、ホロコーストの死者たちにはどのような「できあいの呪鎮の作法」も無効であるということがレヴィナス先生には分かっていたからである。
第一次世界大戦は1300万人の死者を出した。
それ以前にヨーロッパの近代史が経験した最大の戦死者はナポレオン戦争のときのもので、1789年から1815年までの累計で40万人である。
それと比べるとき、わずか4年間で1300万人というのが、どれくらい桁外れの死者だったか想像できるはずだ。
そして、それに数倍する戦傷者がまわりにいたのである。
20世紀は整形外科が画期的に進歩した時代であったが、それは第一次世界大戦から帰還した戦傷者たちのあまりの物体的な「破壊」のされ方に人々が恐怖したからである。私はフランスの退役軍人たちの戦友会の記念写真を見たことがある。全員がフロックコートに山高帽の紳士たちなのだが、その半数以上が「人外魔境人」的相貌(夜道であったら、気の弱い人はそのまま卒倒しそうな「モンスター」)であった。
死者たち、そしてある意味で人間としての尊厳を生きながら奪われた戦傷者たちの恨みを鎮めるために、大戦間期のヨーロッパの人々は必死になった。
無名戦士たちのための巨大な墓が作られ、戦死者、戦傷者たちは、「護国の英雄」として神話化された。
それはたしかにその1世紀前、ナポレオン戦争の戦死者たちを弔うときには効果的に機能した喪の儀礼であった。
だいたい、ヨーロッパの人々はそれしか呪鎮の作法を知らなかった。
だから、死者たちは国民国家の「国家的大義」という神話の中で「永遠に生きる」というかたちで弔われたのである。
その神話化は最悪の結果をもたらした。
わずか20年後に第一次世界大戦の死者数をさらに大幅に超える死者たちを世界は弔わねばならないことになったからである。
第二次世界大戦のあと、大戦間期にヨーロッパ諸国が採用した喪の儀礼は使い物にならないし、大戦間期に「喪の主体」の役割を引き受けた人間たちは、誰一人今後の儀礼の「喪主」になる資格はない、ということを痛切に実感していた人間は非常に少なかった。
ほとんどいなかった、と言ってもいいくらいだ。
レヴィナスやラカンは「喪主」であることを引き受けようとした例外的な人々である。
構造主義者たちが「主体の死」ということを言い出したとき、私たちにはその思想史的文脈が見えなかった。
彼らは「ヨーロッパ的主体には、第二次世界大戦の死者を弔う資格がない。ヨーロッパ的・近代的主体は喪の場から去れ」と告知していたのである。(聞いてびっくりだね)
構造主義は、彼らなりの「喪の儀礼」であったと今では思う。
レヴィナスの葬礼の仕方は構造主義者とも違う、まったくオリジナルなものであった。
これほど複雑な思想の理路が、平和な時代にのほほんと暮らしている私たちにそうそう簡単に分かるはずがない。
それを何とか理解しようと、肩を凝らして、四苦八苦しているのである。