9月6日

2003-09-06 samedi

合気道のお稽古。
推手、転換しながら推手による気の感応のエクササイズ。拍子を合わせる動き、はずす動き。浮きをかける切り上げ。遊びを取っての呼吸法など、最近のテーマを集中的に稽古する。
先日の甲野先生との「個人レッスン」のおかげで、「遊びを取る」という感覚がようやく分かってきた。
お稽古後、イワモト・パソコン秘書による「ウチダ家PC環境改革計画」の第三日目に入る。
まずADSLを接続して、ルータを設置。私のパワーブックの中に Air Mac という怪しげな機械を臓器移植し、これによって家庭内無線LANというものがここに完成する。
つまり家の中のどこからでも無線でLANがつながるので、トイレでも風呂場でもベッドの中からでもパワーブックさえあれば、ADSLでお仕事ができるのである。さらに Air H" を装備してあるので、家の外ではPHSでデータの送受信ができる。
秘蔵の「うさこちゃん」のマウスパッドをおろして、さっそくばりばりとお仕事を始める。
このあとさらにメインとなるIBM Think Centre A50 のセッティングと、今使っている Aptiva のデータの移送。さらに研究室のPC環境の改善など仕事はまだ残っているのであるが、本日にて計画の中心的部分はクリアーされたのである。
イワモト秘書によると、これが完成すると、おそらく現在の人文科学研究者としては望みうる最高水準のPC環境が整うであろうということである。すごいね。

イワモトくんのご苦労をねぎらうため、「ご近所ドクター」とウッキーもお相伴に、四人でベリーニでご飯。
これで一ヶ月のあいだに三回ベリーニでご飯を食べたことになる。贅沢な話であるが、なにしろベリーニは「うちから一番近い飯屋」(歩いて30秒)なのであるから、その点はご配慮願わねばならない。
それに前の二回は三宅先生のおごりである。私も少し自分の分の「税金」を払わないとまずい。
ちょうど二日前に角川書店から『疲れすぎて・・・』の重版の印税が振り込まれたので、あぶく銭がもたらす「カルマ」を落とすべく、お若いみなさんに美味しいものを食べていただくことにしたのである。

ご存じのかたもあると思うが、お金には「カルマ」というものがもれなくおまけでついてくる。
これをカメに詰め込んで床下に退蔵したりするとどのような災禍に見舞われるかは、『水屋の富』などの人類学的資料に詳しいのでここでは繰り返さない。
その災禍を避けるためには「喜捨」あるいは「贈与」というものがなされる。
あぶく銭が入ってきたら、すみやかにこれを「喜捨」するのが人類学上の鉄則である。それゆえ、一般に不労所得を得た人たちは紀伊国屋文左衛門の前例にならって「大尽遊び」というものを行うわけである。
「大尽」という言葉を私は子供の頃「大臣」と間違えていたが、もちろんこれは政治権力とは何の関係もない。「大尽」とは「大いに蕩尽する」ことによって身に添わぬカルマを落とそうと試みる宗教的覚者のことなのである。
今日の社会の深刻な人類学的な問題の一つは、この「喜捨的蕩尽」の習慣が失われていることである。

能力主義社会というのは、所得が社会的能力の指標であるような社会のことである。そこでは、「所得の多い人間」は「社会的能力が高い人間」と同定される。
したがって能力主義社会においては、高い所得のあった人間が「これは身の丈に合わないあぶく銭である」というふうに自己申告することは、構造的に困難である。
だって、そうでしょ?
「あぶく銭」が発生するということは、勤務考課が適切に行われていないということであり、それは能力主義社会の能力査定が正確を欠いているということを意味するからである。それは「秩序紊乱的」「反社会的」な発言とみなされる。
「あぶく銭」や「不労所得」といった言葉は、能力主義を標榜する社会において決して口にされてはならない禁句なのである。
けれども、おのれの所得をおのれの能力の指標であると認識する人間には、自分が得ている収入は「ほんらい他者に帰属すべきものを私が不当に簒奪しているのではないか?」という疑念が兆すことがない。
現代人の過半は、むしろ自分の収入は自分の社会的能力よりも低く査定されており、ほんらい自分に帰属すべき収入が、「誰か」によって簒奪されている、と考える傾向にある。
この「被収奪感」を社会理論の基本にすえるという点ではマルクスも資本主義者もフェミニストもセクシストも原理主義者も帝国主義者も変わらない。
しかし、「被収奪感」を社会的行動の基盤とし、「私のものを返せ」というかたちで政治的要求を綱領化するのは実はとても危険なことだ。
でも、その危険を理解している人はほんとうに少ない。