9月5日

2003-09-05 vendredi

わがPC環境近代化計画は着々と進行中。
「絶版」のクラリスホームページをネットオークションでゲットして、G4に搭載。ようやく、これで我が家と研究室の両方からホームページの更新が可能な環境が整備されたのである。
「整備されたのである」などとひとごとのように言っているが、もちろんウチダ自身はこのようなハイレベルの作業にはまったく関知しておらず、すべては「パソコン秘書」イワモト君と「永世芸術監督」フジイのあいだで、私には理解の及ばぬテクノロジカルな会話が行われて、「蚊帳の外」で進行しているのである。
世に「適材適所」ということばがあり「餅は餅屋」あるいは「蛇の道は蛇」ということばもあるように、人にはそれぞれ得手不得手というものがある。

私はメカは苦手であるが、メカを利用するのは大好きである。
お金儲けは苦手であるが、お金を使うのは得意である。
ご飯をつくるのは面倒だが、ご飯を食べるのは少しも面倒に感じない。

そういうふうに、趣味趣向というのは人によってばらけているのであるから、「メカが得意で、お金儲けが上手で、ご飯作るのが好き」な人びととのネットワーク形成に成功すれば、五族共和、神仏習合、この世のハライソとなるのがことの条理なのである。
私の場合は「メカ得意」に秘書や監督や「師匠」がおり、「お金儲け」系には兄ちゃんとヒラカワ君があり、「ご飯」にはヤマモト画伯が控えていて、盤石の体制となっている。
世の中には「同類」とつるむのが好きな人と、私のように「異類との出会い」を求める人と、大きく二つのタイプに分かれる。
「同類」と癒合するのは、一見すると快適に思われるかもしれないが、それは短見である。
だって、同類との癒合というのは「メカが苦手で、金遣いが荒くて、ご飯を作らない」人間がダマになるということであり、その不便さと不快さは想像するだにたとえようもないのである。
「異類」との共生、symbiosis こそはレヴィナス先生がお説きになるように倫理的に正しいというだけでなく、生活実感としてたいへんに快適なものなのである。

レヴィナス『困難な自由』の翻訳をさくさくと進める。
一日二頁を日課としたのであるが、昨日は順調に4頁。今日から『困難な自由』中の白眉とも申すべき「神よりもなおトーラーを愛す」に入る。
これは涙なしには訳せない佳編。

次に岩波書店の「セックスワーク」論。
どんどん書いているうちに予定の40枚をかなりオーバーしてしまう。
私と同意見の方も多いと思うのであるが、なぜか性についての議論はそれ以外の問題よりも「党派的単純化」の傾向が強い。
たとえば、セックスワークをめぐる議論において、「女性が何を求めて春を売ろうとしているのか?」については社会学心理学政治学などを総動員してこれを分析せねばならないということについては、ほとんど全員が意見の一致を見ているにもかかわらず、「オヤジは何を求めて春を買うのか?」についてはどなたもほとんど一顧だにされていないのである。
これはなぜなのであろう?
自動車を売るという場合、「自動車メーカーは何のために自動車を売るのであろうか?」という議論に人々が熱中し、「クライアントはどういう自動車を求めているのであろうか?」というマーケットリサーチが一顧だにされない、というのは考えにくいことである。
その非常識が買売春については通るということは、議論のどこかで「男性の性欲というのはたいへんに単純なものである」という前提が満場一致で採択されたことを意味している。
こういうイデオロギッシュな前提の上にすべての議論が展開する場合、それが真の意味でラディカルなものになる可能性は低い。
通常、イデオロギッシュな前提の上に立つ議論の結論は、ほとんどの場合「どうどうめぐり」の末に「現状肯定」に帰着するというのが私が経験から学んだことである。
私は忙しい人間なので、「どうどうめぐり」の末に現状肯定に帰着するというような議論につきあっている暇はない。
しかし、性に関する限り、あらゆる論件は「話せば話すだけ、同語反復になる」ように構造化されている。
性に関して、私が知る限りいちばんまっとうなことを言ったのはミシェル・フーコーである。
フーコーは近代における性をめぐるすべての言説はただ一つの機能しか持っていないことを道破した。
それは「性にかかわる言説を生産する装置、いよいよ多くの言説を生み出す装置」なのである。
性について語ることにはただ一つの目的しかない。それは「性についてさらに多くを語ること」を動機づけることである。
しかし、何かを書かねばならないので、こんなことを書いた。一部をご紹介しておこう。

 性の問題は「実践の水準」と「理論の水準」のあいだに架橋することが困難な論件の一つである。(貨幣の問題も、国家の問題もそうだ)。理論は理論、実践は実践である。そこは切り分けておいた方がいい。
 例えば、「貨幣は幻想だ」というのは理論的には真である。しかし、「貨幣は幻想だ」ということを書いた本の印税を貨幣で受け取ることを拒絶した学者のあることを私は寡聞にして知らない。「国家は幻想だ」というのは理論的には真である。しかし、「国家は幻想だ」という理説を講じるためにアメリカの大学に招聘されたとき、菊の紋章入りのパスポートを携行するのを拒否した学者のあることを私は寡聞にして知らない。
 私はそれを「よろしくない」と言っているのではない。「そういうものだ」と申し上げているのである。「理論的には正しくても、すぐに実践できないこと」はたくさんある。その「水準の違い」をわきまえて、議論をした方がそうでない場合よりも生産的だろう。
 セックスワーカーは現実に存在する。だが、「セックスワーカーは現実に存在する」がゆえに「何らかの歴史的使命を負っている」という主張には、「売春は不道徳である」がゆえに「セックスワーカーは存在してはならない」という主張に与することができないのと同じ理由で、私は与しない。現実に存在するものは、必ずしも理論的に正しいものばかりではないし、理論的に正しいものが必ずしも現実に存在するわけではない。「あってはならないはずのものが、ある」ときには、「どうも参りましたね」と困惑するというのは一つの有用な選択肢である。「困惑する」という態度は、それほど無意味なものではない。むしろ、「困惑している人間」は「すっきりしている人間」よりたいていの場合生産的な議論の対話者となりうるのである。
 「困惑」の一例は岩波書店の「女性学事典」の「セックスワーカー」の項の解説に見られる。

 「一般的にセックスワーカーという概念は自己決定に基づく売春の擁護に用いられることが多い。すなわち、売春を自由意志に基づくもの(自由売春)とそうではないもの(強制売春)とに分けて、前者の売春を行っている人たちをセックス・ワーカーと呼び、これらの人びとの売春する権利を認めるべきだとするような議論である。しかし、売春者の権利主張の力点は、このような自己決定や自由意志に基づく売春の肯定という点にではなく、売春者の自己決定権の尊重という点にあると考えられる。買春は男の本能である、性犯罪を防止するためにはセックス産業は必要であるなどと見なされ、社会自体が売春する女性たちを必要としている。すなわち、売春は社会的に必要とされ、源に労働として行われているのである。にもかかわらず、道徳的にも法的にも許されない行為と見なされ続け、売春を行う女性たちは差別され、さまざまな権利を奪われている。そのような差別に対する抵抗が、このことばには込められている。」

 どう読んでも分かりやすい文章とは言えない。それは「売春者の権利主張の力点は、このような自己決定や自由意志に基づく売春の肯定という点にではなく、売春者の自己決定権の尊重という点にあると考えられる」というセンテンスの意味が取りにくいからである。この文が言おうとしているのは、「自由売春を原理的に肯定すること」ということと「現に売春をしている人間の人権を擁護すること」は水準の違う問題だから別々に扱う方がよいということである(そう書けばいいのに)。
 「原理の問題」と「現実の問題」は別々に扱う方がいい。たしかに仕事はそれだけ面倒になるが、私はそういう考え方を支持する。例えば、「囚人の人権を守る」ということは「犯罪を肯定する」こととは水準の違う問題である。囚人が快適な衣食住の生活環境を保証されることを要求する人は、別にその犯罪行為が免罪されるべきだと主張しているわけではない。人権は人権、犯罪は犯罪である。それと同じように、売春は犯罪だが、売春者の人権は擁護されねばならないという立論はありうる。しかし、多くの人は話を簡単にしたがる。「売春は犯罪だから、売春者の人権は擁護の対象とならない」という厳密な法治主義の立場に立つか、「売春者の人権は擁護されねばならない。だから、売春は合法化されるべきである」という包括的人権主義の立場に立つか、どちらかを選びたがる。その方が「話が簡単」だからだ。しかし、「話が簡単」であるということは、それほどに優先順位の高い理論的要請であると私は考えない。現実が複雑なときに、むりやりこれを単純化してみせることには「知的負荷を軽減する」こと以外に得るところがないからである。
 私がこの小論で言いたいことは、ほとんど以上に尽きるのである。

なんだか、どんなテーマで書かせてもウチダの書くことは「ほとんど以上に尽きる」ようである。
しかし、こんな簡単な話がなかなか通らないとは、まことに面妖な世の中なのである。