8月19日

2003-08-19 mardi

三軸自在の三宅先生ご夫妻に三宮の「伏見」というお寿司屋でごちそうになる。
患者が治療者にごちそうになるというのは順逆の筋目の狂った話であるが、私は三宅先生にふだんから「ああしなさい、こうしなさい」と言われ慣れているので、「では寿司屋に行きましょう」と命令されると、「は、はい」と反射的についていってしまうのである。
たいへんに美味しいお寿司屋さん。とくに「焼き穴子を海苔で巻いたの」が絶品であった。
高知からバスで来たるんちゃんを三宮駅前で拾って、るんちゃんのお友だちといっしょにRE-SETへ。11時の大阪発の夜行バスでお二人は東京に帰るので、そのあいまに晩御飯をごちそうする約束だったのである。るんちゃんたちにはピザやパスタやキッシュを食べていただき、三宅先生と私はさらにシャンペン、白ワインなどごくごく呑む。
ここのお勘定は私が・・・と思っていたら、目にも止まらぬすばやさで三宅先生の奥様に払われ、娘たちの晩御飯までごちそうになってしまった。
三宅先生は池上六朗先生と私の「対談本」の企画があって、今回のご会食はその打ち合わせだったそうである。
このところ「対談本の打ち合わせ」と称して、ぱくぱく美味しいものを食べる機会が続いている。
三宅先生ごちそうさま!

19日は終日原稿書き。
レヴィナスの「他者/死者論」の目鼻がついたところで、(予想されていたことではあるが)時間論にはいりこむ。
ハイデガー存在論において主体は「死に向かう存在可能性」として、時間の流れの中では一方向的に考想されている。
だが、実際に私たちは「死に向かう存在可能性」であると同時に、「死んだ後の私」という想像的視座から逆走する時間流の中でおのれを捉えてもいる。
この後者の時間の流れ方を仮に「霊的時間」というふうに術語化すると、レヴィナスの言う「霊性」や「聖性」というものがある種の時間意識の展開であることが知られるのである。
「無限」とか「他者」と呼ばれるものが「一度も現在になったことのない過去」に出来するとされるのは、考えて見れば当たり前で、「無限」や「他者」が「私の死んだ後の私」の棲まう次元に属するものだからなのである。
しかし、この「私が死んだ後の私」というは決して悖理ではない。
喩え話を一つ。

ラカンのゼウキシスとパラシウスの話だ。
ゼウキシスとパラシオスという二人の画家がどちらがより写実的に絵を描けるか、その技術を競うことになった。まずゼウキシスが本物そっくりの葡萄を描いた。その絵はあまりに写実的だったので、鳥が飛んできて、絵の葡萄を啄もうとしたほどだった。
出来映えに満足したゼウキシスは勢い込んで、「さあ、君の番だ」とパラシオスを振り返る。
ところが、パラシオスが壁に描いた絵には覆いがかかっている。そこでゼウキシスは「その覆いをはやく取りたまえ」と言う。そこで勝負は終わってしまった。
なぜなら、パラシオスは壁の上に「覆いの絵」を描いていたからである。

この寓話の教訓は何か。ラカンはこう書く。

「パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなければならない、ということである」(「分析と真理、あるいは無意識の閉鎖」、『精神分析の四基本概念』)

絵は見かけであり、この見かけこそが見かけを見かけたらしめている当のものである、ラカンはそう書いている。
これが私たちの現存在のあり方である。
私たちはいわばパラシオスが壁に描いた「覆いの絵」なのである。
私たちは「何かをその輪郭通りに覆っているもの」として、その「何か」の代理表象である。
代理表象なのだが、この「何かをその輪郭通りに覆う」という「覆いの絵」の機能は、ほかのどんな「絵」によっても代行されえない。
つまり、他のどの絵をもってしても、「隠された絵」は覆い切れないという点において、「覆いの絵」はかけがえのない、唯一無二のものなのである。この「覆いの絵」の自己同一性は、そのようにしてそれが「隠された絵」の代替不能の「身代わり」である、という点に存しているのであるが、その「隠された絵」は実はどこにもないのである。
これが私たちの現存在の本質構造である。
「死んだ後の私」というのは、私の人生にエンドマークが出たあと、「棺を蓋したその後」、つまり私の人生の「決算表」が算定され、私の人生の意味のすべてが決定したそのあとの「私」のことである。
それが「隠された絵」である。
生きている私はそれを「覆う絵」である。
「今生きている私」の自己同一性と代替不可能性は「死んだ後の私」によって担保されているのである。
私はまだ死んでいないが、ある意味ですでに死んでいる。
これが私たちの現存在の根源的様態であり、私たちの時間意識の構造なのである。

というような話がこれから展開するのである。
なにしろ、私はもう死んでいるのであるから、ややもすると死者とか他者とか霊とかが「よ!」と挨拶しながらぞろぞろ出てくるのも話の流れからして避けがたいのである。
なかなか面白そうでしょ?