8月17日

2003-08-17 dimanche

小雨がぱらぱら降る肌寒い一日。
朝から原稿書き。
レヴィナス/ラカン論第二章「死者」(端的な題名だな)を書き継ぐ。
もう全体の75%くらいは書き上がったのだが、まだ25%ほどについては断片的な考想だけがあって、その「つながり」が見えない。
こういうふうに「ヒントを示す断片的な事実」だけが散在していて、それらを統合する図式が「まだ見えないけど、もうすぐ見えそう」なときが研究者としてはいちばんはらはらどきどきして、愉しい時間である。
八月中には仕上がり、年内には出版できるだろう。
『レヴィナスと愛の現象学』に続く、ウチダのライフワーク第二弾である(ライフワークなどというものをそんなに軽々に出してよいのか、というご疑念もあろうが、よろしいのである。「これを出したら、あとは余生」というような「お手軽ライフワーク」設定じゃないと、なかなか仕事は終わらないものなのである)
前作よりぐっとディープであるから、「レヴィナスを読んだことがない人」は残念ながら、読者に想定されていない。
一度手に取って、あまりの難解さにはらりと手から本を取り落とし、「それにつけても、いったいどうしてこんなにむずかしいことを書くのだ、この人は・・・」と絶句したことのある人だけが対象である。
そういう人に「なぜ、あなたは本をはらりと落としたのか」、その理由を教えて進ぜよう、という本である。そして、まさに「はらりと落とした」ことによって、あなたは「想像界から象徴界へ踏み進んだのだ」のである。よかったね。
というわけなので、やはり『全体性と無限』であるとか『存在するとは別の仕方で』とか『エクリ』とか『セミネール』などをとりあえず買ってですね、「げえ、ぜんぜんワカラン」という「ワカラン」体験をされてからでないと、私の本の「ありがたみ」もワカランのです。


午後になったので、芦屋駅前でイワモト君を拾って大学研究室へ。
イワモト君は7月に芦屋の道場に入門された岡本在住のSEの方であり、ウチダの「パソコン屋はなぜおらんの!」という悲鳴をききつけて、ウチダのPC環境の全面的な再構築とメンテ無償ご奉仕を申し出てくれた奇特な方である。
彼の構想によれば、ウチダの研究室の二台のPC、自宅の三台(デスクトップとノートとシグマリオン)のすべてはデータ共有できるように繋がれ,ADSL導入、仕事用のウィンドウズマシンは最新鋭機器に買い換え、G4はOS10をインストールしてヴァージョンアップ、ホームページ制作も自宅から・・・とめくるめく夢のPC環境が整備されるらしい。
私は何もしないで、ただぼんやり指をくわえて眺めて、お金だけはいはいと出せばよいのである。
ありがたいことである。
研究室のメーラーを早速修理していただく。
メーラーがいかれたG3は私の記憶では4年ほど前に購入した「新品」なのであるが、イワモト君は一見するや「おおお、まだこんなものが!」とまるで骨董屋の店頭で昭和30年代の氷冷蔵庫でも発見したように感動していた。
ことPCに関しては、時間は他の家電の10倍の速さで流れているようである。

2時間ほどでさくさくと修理が終わり、イワモト君を岡本にお送りして、鍼へ。
ぷちぷちと背中や頸椎に鍼を刺して貰っているうちによだれを垂らして爆睡。
甦って帰宅してから、ラカンとフロイトを読む。
論文を書いてテンションが上がっているときに読むと、ふだんの読書ではおそらく見落とすような細部に気づくことがよくある。
その点が「一般読者」と「学者」の本の読み方のいちばん大きな違いである。
ふつうの読者は心に触れるフレーズに出会って、「なるほど」と深く感嘆することはあっても、引用にどんぴしゃのキーフレーズに出会って「やったー!」と飛び回って喜ぶということはあまりない。
これは道ばたを歩いていて、札束のぎっしり詰まった財布を拾ったような気分のものである。調子がよいときは、一日に三回くらい「財布を拾う」こともある。そういうときは、ほんとうにうれしい。

9時まで仕事をしてから『仁義なき戦い・代理戦争』を見る。
一昨日、深作欣二のインタビューを読んだので、また見たくなってしまったのである。DVD全五作が揃っているので、いつでも見られる。もうほとんど台詞も覚えてしまった。

「明石組と五寸でやれるんは神和会しかありゃせんので」

小林旭の天才性に感動しつつ、名越先生原作の『殺し屋1』がアマゾンで届いたので、四冊抱えてベッドに転がりこむ。おおお、これはあまり寝しなに読む本じゃないなあ。とまらなくなっちゃったよ。