じゃんじゃん雨が降る。
世界的な異常気象で、ヨーロッパは猛暑、日本は多雨で日照時間不足だそうである。
猛暑のせいで、ボルドーの白ワインが奇跡的に美味しいそうである。「2003年のボルドーの白」ね、ときちきちと頭にメモする。
私の仕事は雨が降ろうと槍が降ろうとぜんぜん関係がない。
こりこりとレヴィナス/ラカン論の原稿を書く。
第一章「テクスト・パフォーマンス」論が終わって、第二章「弔いのエクリチュール」に入る。
こちらも原型になるものはすでに春休みに100枚ほど書いてある。
アカデミック・ハイ状態で書いたものなので、いったい、どういう理路で書いているのか、自分で読み返してもよく分からない。
その頃、「何か」に取り憑かれて数日間で書いたものらしい(そのあと、新学期が始まってしまったので、途絶したのである)。
「存在するとは別の仕方」というのが、絶対的他者=死者と繋がるためのコミュニケーション・マナーのことだと主張したいらしい、ということまでは分かった。
また、なんでそんなことを思いついたのか、その筋道が思い出せない。
やれやれ。
しかし、謎、師弟、テクスト、対話、他者といった論件は第一章で、なかなかきれいにまとめられた。
このあと「他者とは死者/神のことであり、レヴィナス/ラカンの思想は詮ずるところ呪/祝の礼法なのである」という結論に帰着すると、全部が繋がって、たいへんにすっきりする。
レヴィナスもラカンも霊性について語ろうとしていることは間違いない。
しかし、死者/神というのは、当然ながら世界内には存在しない。
「死者/神は存在する」というふうに言ってしまうと、これはまるっと存在論である。
しかし、まさに〈ホロコースト〉を阻止しえなかった存在論を超克するためにこそ二人とも思索しているわけであるから、「死者/神は存在する」という言葉づかいは許されない。
だから、「死者/神は、存在するとは別の仕方で・・・」という、副詞だけがあって、その副詞を承ける動詞が欠如した構文でこの論件は書かれなければならないのである。
レヴィナスやラカンが分かりにくいのも道理である。
なにしろ、死者と神の話を、それを実詞としては決して名指さないという禁則を課して書いてるんだから。
論じている当の対象を名指すことを自らに禁じているエクリチュールが「何を言おうとしているのか」を「高校生にも分かる」ように書いてしまおうというのであるから、私の仕事が面倒なのも当たり前である。
しかし、これは完成したら、なかなかよい本になると思う。
共同通信社から深作欣二の本の書評を頼まれているが、これが500頁もある本で、なかなか読み進まない。(締め切りまであと4日しかない)
そうこうしているうちに、キネマ旬報社からは『踊る大捜査線・The Movie 2』についてのコメントを求めるファックスが来る。
映画論は私の「本業」の一部であるので、こういう仕事は「物書き廃業」を理由に断るわけにはゆかない。
私としても、「佐田啓二の後継者」とひそかに期待を寄せている織田裕二君のためであるから、一肌脱ぎたいのは山々なれど、まだ肝腎の映画を見ていない。(TV版と『The Movie』は二回ずつ見てるんだけど)
見てない映画のコメントは書けない。
明日はまた新幹線で東京。
今度は、鈴木晶先生、名越康文先生との暴走トークである。
まことに愉しそうな仕事であるが、それにしても、忙しいね。ふう。
(2003-08-14 00:00)