8月11日

2003-08-11 lundi

爆睡したので、歯の痛みは一段落したようである。
だいたい過労→免疫低下→炎症というきわめて合理的なサイクルで私の身体はへたるのである。
寝れば治る。
むくむくと起き上がって、猛然とレヴィナス論を書き進む。
ラカンの『セミネール』を読んでいるうちに、「ああああ、全部繋がった!」という(幸福な勘違いの)瞬間が到来する。
こんな短い助走でアカデミック・ハイが訪れるというのは珍しいケースであるが、霊感が降りて下さった以上遠慮する必要はない。
指の出しうる最高速度でキーボードを叩きまくる。
鉛筆に原稿用紙の時代はこうはゆかなかった。頭に浮かんだアイディアを原稿用紙に書き写そうにも、3、4時間もハイが続くと、もう腕の筋肉が持たない。肩がばりばりになって、最後は背中の筋肉痛でダウン、ということが多かった。
パソコンのおかげで、頭に浮かぶアイディアを筆記する速さは手書き時代の数倍早い。
それをカット&ペーストしてどんどん原稿にしてしまう。
海鳥社から出す予定の『レヴィナスとラカン』の草稿はすでに400枚を越した。もちろん、こんな分厚い本は出せない。しかし、アイディアはどうやらまだまだ湧き出てきそうである。どうすればよろしいのであろう。

今日の「ああああ」は「謎は同じ行為を二度すると生成する」というものであった。
こんなこといきなり言われてもワカランでしょうから、今日書いたところをちょっとだけペーストしておこう。(レヴィナスにもラカンにも全然興味ないひとは、読まないでいいですよ、もちろん)

この物語では同一の場面が二度繰り返される。黄石公がしてみせたように、ゲームが始まるためには必ず同じ動作がわずかな変化を伴って二度繰り返されねばならない。
そして、そのとき「何かが二度繰り返された」ことに気づき、そこに「隠されていて推理するしかない規則性」がひそんでいる信じた者が-ラカン風に言えば、想像界から象徴界に歩を進めた者、つまり「父」の審級を見上げる「子ども」の立ち位置を選んだ者が-「敗者」となるのである。
これで私たちはなぜデュパンが大臣を出し抜くことができたのか、その理由も同時に知ることになる。それはデュパンが大臣を二度訪問したからである。
なぜ二度なのか?
この「ゲームのルール」を知らない人は単純に、それはデュパンが「すり替えるための手紙」を用意したり、窓の外で騒ぎを起こす「エキストラ」の手配をしたりするために、準備の時間が必要だったからと考えてしまう。
でも、事実はそうではない。
ゲームに勝つためには、二度同じ行為を繰り返さないといけないのだ。
まさしく石公が張良にしたように。
現に、一度目のデュパンの訪問に大臣は何の興味も示さない。大臣が「これみよがしの無関心」と「ロマン派的な倦怠の色」をデュパンに誇示するのは、演技ではなく、ほんとうに興味がなかったからなのだ。デュパンは彼が毎日何十人となく執務室に迎え入れる無数の来客の一人にすぎない。
しかし、翌日再び来意が告げられたとき、大臣はデュパンの行為に「隠されていて推理するしかない規則性」があるのではないかと疑い始める。このときに大臣は「デュパンはそうすることによって、何をしようとしているのか?」という問いに取り憑かれたはずである。そして、デュパンが二度訪れたのは、まさに大臣のうちにその問いを起動するためなのである。
デュパンの大臣訪問と、石公の沓落としは構造的には同じ性質のものである。
それは、どちらも「何の意味もない」ということである。
もし、デュパンが最初の訪問のときに、いきなり手紙のすり替えを試みたとしたら、彼は間違いなく大臣にその意図を読まれて、ただちに取り押さえられていただろう。
デュパンが成功したのは、一度目の訪問を無意味なものとして遂行したからである。
一度目が無意味な訪問であったからこそ、二度目の同じく無意味な訪問を受けて、大臣のうちに、デュパンの無意味な行為の「隠された意味性」を読み出したいという欲望が発生したのである。

「この男のこの一見無意味な行為の背後には、どのような隠された意図があるのか?」

ひとたび「子どもの問い」を抱いたものは、その宿命として、「謎を追う者」、つまり「他者の欲望」に焦点を合わせる「弟子」=「子ども」の位置に進む。同時に、「子ども」によって「謎を蔵する者」に擬された者は、「師としての他者」=「大人」の位置に進む。
「子ども」と「大人」のあいだの関係はもう鏡像的ではない。
「子ども」はいくら自分の内面を覗き込んでも、そこに「大人」を他我として想像的に把持することを許すようないかなる有意なデータも見出すことができない。というのも、そもそもその人が「子ども」の欲望に点火したのは、どのような双数的=鏡像的な感情移入をもってしても、決してその「規則性」を捉え得ない人間として出現したからなのである。
そして、それはその人が何か深遠なことを語ったからでも、叡智あふれる行動をしたからでもない。その人は無意味な行為を、少しだけ差異を加えて二度繰り返しただけにすぎないのだ。

この辺が「おおお」の予告編である。
とにかく、それで私はどうして主がモーセに「二度」律法の石板を与えたのか、その理由が生まれて初めて腑に落ちたのである。
どうしてそういうことになるのか知りたい人は本を読んで下さい。
こういうことがあるから夏休みはいいよね。