8月9日

2003-08-09 samedi

台風の中を新幹線で東京へ。
朝日カルチャーセンターの「シリーズ・ケアをひらく」「身体からのメッセージを聴く」。
医学書院の白石さんの企画の講演シリーズである。
ウチダは介護とか医療とかいう業界とはまったく無縁の人間なのであるが、先般の三軸修正法の講演のときは接骨や整体の治療者が聴衆であったし、今回は助産婦さんや看護士のかたがたが多いとうかがっている。
総じて「臨床」の人とウチダは相性がよいようである。
「本は身体で読む」とか「テクストの身体性」とか「呪鎮としての歌」というような話は文学研究の同業者は誰も相手にしてくれないが、臨床家たちはそれぞれ「身に覚えがある」らしく、なかなかに反応がよろしい。
いつも講演草稿は用意せず、その場での思いつきばかり話しているのであるが、それではあまりにも学術性に乏しかろうと、今回は「引用出典」をご用意して、「このように私と意見を同じくする方々がおられるのです」という論拠に引かせて頂くことにする。
「証人」としてお出まし願ったのは、佐藤学、谷川俊太郎、竹内敏晴、木田元、村上春樹、橋本治、マイケル・ギルモア、鷲田清一、白川静の諸先生方。
ほんとうはこれにモーリス・ブランショ、エマニュエル・レヴィナス両先生にお出まし願うとパーフェクトなのであるが、先生方を呼んでしまうと「他者」や「死者」や「霊」もぞろぞろついてきてしまい、その応接がたいへんであるので、今回は「そちら方面」は白川先生ひとりにご担当頂いて、割愛。

講演後、白石さんに三砂(みさご)ちづるさんをご紹介頂く。
数日前の朝日新聞の「ひと」の欄に出ていらしたので、ご記憶の方もあるだろうが、国立保健医療科学院応用疫学室長というお堅い仕事をされているが、最近は女性の妊娠育児にかかわる身体技法のリサーチをされているかたである。
明治の女性は月経血を「締めて」コントロールすることができたが、その身体技法が失われたという記事に一驚を喫した読者も多いと思う。現に、その記事が出たあと、出版社9社から「本を出しませんか」というオッファーが殺到したそうである。
晶文社のAさんが三砂さんに昨日お会いしたときに、私の話が出て、三砂さんがウチダ本の愛読者であることが知れ、「あら、明日ウチダさん、東京に来ますよ」ということでお連れ下さったのである。
名刺交換のあと、医学書院、晶文社のエディターさまたちと「秘書のフジイ」とみんなで打ち上げ宴会になだれ込む。
三砂さんのブラジルやインドネシアらポリネシアのセックスライフについてのフィールド話はもうめっぽう面白く、みんな「ほほほほほう」とのけぞるばかり。
自然分娩がいかに感動的で教育的な経験であるか、三砂さんに次々と事例を挙げて説かれているうちに、なんとフジイ君までがぽつりと「子ども産もうかな・・・」としみじみ言ったのにはびっくり。いそいそとノートをとりだして東京都内のオススメ「助産婦」さんのリストを控えていた。よいことである。

その三砂さんによると、女の人間的成長にとって出産こそは最高の機会である。(ただし自然分娩にかぎる)
自分が種の永遠のリンクの中のかけがえのない環として、無限の時間とつながっているという「絶頂体験」を経由した人間は、コミュニケーション能力や共感能力が劇的に進化するのだそうである。その結果、自然分娩経験者はその歓喜が忘れられず、繰り返し妊娠出産することを求めるようになる。
だから、いま行政が主導している「少子化」対策というようなものはまったくナンセンスなのである。
だって、それらの施策は妊娠出産育児というのは、女性の「自己実現」を損なうマイナス・ファクターであり、その「苦役」と「不利益」からどうやって女性の主体性と人権を擁護するか、というフレームワークで語られているからだ。
「苦役」の公正な分配と、金銭的・制度的「補償」によるその相殺、という枠組みで行政やフェミニストがこの問題をとらえている限り、少子化に歯止めがかかるはずはない。

三砂さんの提案するのは、「とりあえず産みなさい」ということである。
結婚とか仕事とか年齢とか、そんなのは女性が母になる条件としてはまるで二次的なことである。
父親は「産んだあと」で、養育能力のある適当な男をみつくろえばよろしい。
仕事だってキャリアだって、出産を経験して「劇的に進化した」女性にとっては、一人であるときよりはるかに可能性が広がる。生物学的父子関係なんかどうでもいいではないか。子どもを育てるということは男女誰にとってもきわめて幸福で教育的な経験なのであるから、「親類縁者、近所となりみんなでよってたかって育てればよろしい」というたいへんにクリアカットなお立場である。
日頃、めったなことでは驚かない「とっぴょうしもないこと」ウチダであるが、さすがに三砂先生の天馬空を行くがごとき爽快な発言には口をあけて聞き入るほかなかった。

たしかにおっしゃることのいくつかは腑に落ちる。
私が育児をしているときに、研究のために割ける時間が大幅に減少し、「無駄な本を読み、無駄なテーマを追う時間は一秒もない」というタイトな状況に追い込まれた。
するとどうなったかというと、書物の「背表紙」を一瞥しただけで、それが読むに値する本か、どうでもよい本かが言い当てられる能力が目覚めたのである。
他の研究者と会っても、聞く甲斐のある相手か時間の無駄かが一発で分かるようになった。
ちゃんと生物にはそういう「バイパス」形成能力が備わっているのである。
十数年間育児に忙殺され、寝食を忘れて一人書斎にこもるということが許されなかったおかげで、結果的におそらく私の学術的なセンサーの感度は高まり、アウトプットは現に増えた。
三砂先生も同じ経験を語っておられた。
日本に帰って、上の息子さんが「お弁当」をもって通学するようになったら、それまで研究に当てていた朝の時間が削られた。するとどうなったかというと、「コロッケを揚げたり、キャベツを刻んだりしながら、同時に研究テーマをさまざまな視点から熟慮する」能力が覚醒したのである。
そういうものなのである。

宴会打ち上げ後、晶文社と医学書院のスーパーエディターたちの「ボス交」が成立したらしく、それぞれ別テーマで二冊の三砂本の企画が起案され、知らない間に私の仕事がまたふえてしまったようである。
しかし、世の中にはまことに爽快な女性がいるものである。
三砂さんは20年近く海外で仕事をされてきて、ブラジルから日本に帰ってきてまだ3年に満たない。
先入観のないその眼で見たときに、日本の「常識」が「非常識」に見えるというのは、ことの道理である。
私たちがまさに彼女のような人の言葉を待望していたこの時期に、まるで「落下傘降下」するように三砂さんが日本のメディアに登場してきたことに、なんとなく宿命的なものをウチダは感じるのである。

佐藤先生、光岡先生、池上先生と続いた「ご縁シリーズ」、八月は一休みかしらと思っていたら、思いがけなく三砂先生とのご縁ができた。
来週は浜松で中学生をお相手に合気道講習会、中学の先生方との大討論会。そのあと名越康文・鈴木晶両先生との「暴走トーク」、再来週は高橋源一郎さんとのトークセッション「仕切り直し」が待っている。
今年の夏休みはまた例年になくホットな夏になりそうである。