夏休みである。
手帳をひらくと、今日のところが「まっしろ」なのである。
一日、時計を見ることなく、原稿を書き、本を読み、調べものをしてよいのである。
あああああ。
これぞ至福の時間。
まず岩波の『応用倫理学講座』のためにセックスワーク論というのを書く。
セックスワークを「労働」として認知し、行政はセックスワークの現場における人権侵害からセックスワーカーを保護せよ、というのが、セックスワーク論の基幹的な主張である。
だが、何となく私には違和感がある。
セックスワーカーを調理師とか理髪師と同じような「特殊技術をもった労働者」というふうに位置づけることができるのだろうか?
ちょっと想像してみよう。
そうなると、まず売春労働者のナショナルセンターが立ち上げられる(これを要求しているセックスワーク論者は現に存在する)
当然、そのイニシアティヴのもとに売春者健康保険、売春者年金制度が整備される。
同業者の業界団体(「全日本売春者協会」)が出来る(監督官庁は厚生労働省?)。
都道府県別の業界団体もでき、そこが「統一価格表」を設定する。
労働者である以上、その術技のクオリティについての公的認証が必要だから「売春者資格試験」が始まる。
資格試験がある以上、当然ここに「専門学校」というものが出現する。
「1級合格者の80%は本校出身!」というようなコピーがコンビニで売っている『週刊セックスアルバイト情報』(もちろん版元はリクルート)の裏表紙を飾る・・・
なんとなく「変」な気がしてこないだろうか。
私はする。
こんなことは絶対に現実化するはずがないからだ。
だって、そうでしょ?
セックスって「技術」じゃないんだから。するのに「資格」なんか要らないんだから。
「技術」も「資格」もない人間がセックスしても誰も困らない。むしろ、売春者の低年齢化が示すように、「技術も資格もない」ことが売春市場では商品価値が高かったりする。
技術も資格も要せず、価格設定がきわめて恣意的であり、しばしば無償で供与されているサービスを「労働」と呼ぶことができるだろうか?
私はむずかしいと思う。
別に「労働」と呼んでもいいけれど、行政がこれを公的に管理・保護することは実質的に不可能ではないか。
別の場合を考えてみれば分かる。
家でご飯をつくったり、子どもの髪を切ったりする人は別に調理師免許や理容師資格を持っているわけではない。
しかし、いくら料理上手のお母さんでも、はさみ捌きのみごとなお父さんでも、「では」というので、看板を出して、近所の人にご飯をふるまったり、近所の人のヘアカットをして対価を要求することは許されない。
資格を持っていない人間が技術を売ることを法律が禁じているからだ。
プライヴェートではいくら技術を発揮しても構わない。でも「公衆の目にふれるような方法で、人を相手方となるように勧誘すること。広告その他これに類似する方法によって人を相手方となるように誘引すること」は許されないのである。
おや?
これはどこかで見たような・・・
そう、これは「売春防止法」の第五条、セックスワーク論者たちがその「即時廃絶」を求めている当の条文だ。
セックスワークを「労働」とみなし、それを「業界団体」が品質を管理すべき「特殊技能」であるとするなら、当然ながら「公式に資格を得た売春者」以外の売春行為を法律はこれを禁じなければならない。
そうですよね?
日曜大工でお父さんが犬小屋を作るのは構わない。
しかし、「大工やります。家一軒100万円から」というような看板を勝手に掲げて商売を始めると、当然ながら、建設業の業界団体がやってきて、「それはダメよ」と言ってくる。建築士資格ももっていない日曜大工に家を建てさせるわけにはゆかないからね。
セックスワークも、「特殊技術」として認可されるとなると、同じことなるはずである。
つまり、「職業的売春者」と「非職業的売春者」をはっきりと識別し、「プロの売春者」のみを公的保護の対象とし、「アマチュアの売春者」に対しては(日曜大工と同じように)、私的売春のみを許可し、「公衆の目にふれるような方法で、売春を勧誘する」ことはこれを禁じる他ない。
だって、もしプロアマすべての売春者を公的な管理の対象としたら、その数は数百万に及んでしまうからだ。
そうなったら、「売春省」という中央省庁を設置し、年間数千億円の国家予算を投じないととても仕事が追い付かない。
そのような社会政策に国民の多くはたぶん同意しないであろう。
となると、「セックスワーク」を公的に認知させようと望むのであれば、「適法なセックスワーク」と「違法なセックスワーク」を厳然と区別し、前者のみを保護の対象とし、後者を保護の範囲外に排除することに同意署名しなければならない。
プロの売春婦の身分を固定化し、そこから抜け出ることが本人にとって不利益になるようなシステムを作ること。
それって、一昔前の「女衒」の遣り口とどこが違うのであろう。
公娼制度の復活と、私娼に対する売春防止法第五条の厳正な運用、皮肉なことだが、これがセックスワーク論の「論理的帰結」であるように私には思われる。
(というようなことはもちろん岩波の本には書かないんだけどね)
(2003-08-07 00:00)