8月6日

2003-08-06 mercredi

研究室のマックのメーラーが壊れたままなので、ホームページの更新はすべて永世芸術監督にアップしてもらっている。(フジイ君、ありがとね)
そういうだらけたことではいけないのであるが、ウチダはコンピュータのことは、ほんとに全然分からないのである。インターネットの設定をすることを考えただけで前日から食欲がなくなる。
コンピュータにかぎらず、およそ「メカ」はすべてダメである。
内燃機関の構造も理解できないし、カメラがなぜ写るかも分からないし、テレビがどうして見えるのかも分からないし、MD からなぜ音が出るのかも分からない。
それでも五十路を超えるまで生きてこられた。自動車バイクにも乗るし、デジカメも使っているし、テレビもちゃんと見ているし、音楽も聴いている。
分からなくても何とかなるのは、「専門家」がいて、セットアップやメンテを有料で引き受けてくれるからである。
しかるに、コンピュータだけが「セットアップやメンテの有料サービス」がない。
私はつねづね疑問に思うのであるが、なぜこのニッチビジネスに参入する人々たちがおられないのであろうか。
私は新しいPCを買って、ADSL に換えて、そのPCでホームページを作成するようにガッコのマックからデータを移動して、海外からホームページの更新ができるようにG4をセットアップしたいのであるが、この作業を私自身がやることを考えると、それに空費される時間を想像しただけで気が遠くなる。

ウチダには空費できる時間は一分とてない。
しかし、金ならある。
PCのお見立てから、すべての設定までやってくれる人がいたら、私は20万出す(もっと出してもいい)。

もちろん、こんな仕事はコンピュータが分かっている人にとっては「朝飯前」のことであろうから、「どうして、そんなことに20万も・・・」と絶句されるであろうが、それは私がレヴィナスのユダヤ教論を「朝飯前」にコーヒー片手に訳せるのと同じことで、「専門家にとってはたいした手間ではないが、できない人には永遠にできない」種類の仕事というのがあるのである。
しかるに、ことコンピュータになると「ある程度身銭を切ってコンピュータのことを習得しようとしない人間には参入してもらいたくない」ということを広言する人間が多い(というか、ほとんど全員がそう言う)。
私は「ほとんど全員がそう言う」ことは原則として信用しない。
なぜ、引越のあとテレビの設定をしてもらうために電気屋を呼ぶことはできるが、パソコンの設定のために「パソコン屋」を呼ぶことができないのか。
理由は考えれば分かる。
電気屋やガス屋という仕事がありうるのは、それぞれに実定的な技術の体系があるからである。
実定的な技術の体系がある、ということは、電気やガスについては、技術革新が基本的に「ロック・オン」した、ということである。基本原理はもう変わらないで、細部の調整しか残されていない。
コンピュータは「そうなること」を忌避しているのである。
ロックオンしようとすれば、できる。
ある程度の利便性はもう十分確保されている。いまやっているのは、不必要なまでの「速度」と「容量」の増大だけである。
光ファイバーだのなんだの言っているけれど、それで何がどうなるというのか。

パソコンの DVD で映画が見られる?
テレビで見ればいいじゃないか。
音楽がダウンロードできる?
CD くらい買ってやれよ。むこうもそれで生計立ててるんだから。

そんな「どうでもいいこと」のために、コンピュータ業界は必死で技術革新を続けて、そのせいで、「短期的に数十万円するマシンがゴミになる」ように業界全体が孜孜として努力しているのである。
いったい、どこの世界に消費者に大枚払って買わせたものをゴミにするため「だけ」に努力する業種があるだろうか?(マッキントッシュ IIfx は90年発売時の価格は本体167万円だったが、その9年間の中古屋価格は1000円である)

たしかにコンピュータと自動車はある意味で資本主義の最後の砦だ。
いずれも高額商品が(まだ十分使えるのに)短期的に無価値になるように消費者の欲望を構造化することで成立している。
だが、高額で購入した商品がゴミになることを、消費者自身が嬉々として受け容れているというのは、冷静に考えればあきらかに「倒錯」である。
しかし、まさしくそのような「倒錯」の上に資本主義は成立しているのである。

電気屋と同じような業態での「パソコン屋」が存在しない理由はそこにある。
電話一本でライトバンで駆けつけてくれる、設定とメンテの「パソコン屋」が存在しないのは、そのような業態が安定的に営業できるためには、どこかでコンピュータの「無意味な進化」が停止し、技術のロック・オンがなされなければならないからである。
「あ、これね。よくある故障なんすよ」というふうに「パソコン屋」がくわえ煙草でだらだらパソコンをいじるというようなことが現出するためには、少なくともコンピュータの基本的な仕様変更が終了していなければならない。
それは言い換えれば、パソコンがテレビや洗濯機と同じような家電の一部になるということである。
だが、テレビや洗濯機を二年ごとに買い換える人間はいない。
だから「コンピュータを家電にしてはならない」というのがコンピュータ業界の統一意志なのである。
そのためには仕様変更をシステマティックに続けなければならない。そして、新製品を絶えず「ゴミ化」しなければならない(いまのパソコンは60年代にアポロ計画で宇宙船を月に飛ばしたときの NASA のコンピュータより演算能力が高いのである。そんな高性能が誰にとって必要なんだ?)
だが、どこかで、ぱたりとこの資本主義的倒錯へのリビドー備給が停止するときがくるだろうと私は思っている。
そのときにはじめて「パソコン屋」が登場して、「だんなさん、この98年ものの Aptiva まだあと五年は行けますよ。どうせワープロユースだけなんでしょ。OS だって、98 で十分動きますってば・・ちょいちょいと、はい、おしまい。ま、お代は1000円も頂いとこかな」というような穏やかなパソコンライフが始まるのであろう。
その日が来るのも遠くないとウチダは信じている。
いずれにせよ、在京の芸術監督の指示に従って、ウチダのための個人的「パソコン屋」をやってくれる方(芦屋近隣にお住まいの方ね)を募集しております。仕事内容とギャラは上記の通り。夏休みのお小遣いに困っているオタクな青少年のオッファーを待っております。