8月5日

2003-08-05 mardi

東大の副学長がカラ出張で辞任した。
日本学術振興会の科研費から3年間に支給された出張費900万円のうち500万円が実態のないカラ出張だった。
理由について、ご本人がこんな言い訳をしている。

科研費は単年度決算なので、その年度に支給された分は年度内に執行しなければならない。年度の初めにはまだお金が降りない。だから、「プール」する必要がある。

国の予算は全部そうである。
年度を越してお金を余らせることが許されない。
だから、その年度内に支給された予算が使い切れない場合は、年度末に「要らないモノを買って」予算の帳尻を合わせるか(これは合法)、年度途中に「カラ伝票」を切って(これは非合法)を金をプールしておくか、二つしか方法がない。

私が某公立大学の助手で、研究室の予算を管理していたときはこの二つをやっていた。
ある年の春休みに家で本を読んでいたら、大学の経理から電話がかかってきて、今年度ついた補助金をおたくの研究室だけまだ執行していない、なんとかしろと言ってきた。
別に研究室で申請した予算ではない。上からばらまかれてきたものである。
百万円以上の額がまるまる残っているという。
それをいつまでに使えばいいのか聞いたら、明日までだという。
そんなのムリだと言ったが、明日までに領収書を揃えておけとガチャンと電話を切られた。
しかたがないので新宿の専門書店に行って、これこれの事情なので、「100万ほどみつくろって」と頼んで、「棚ごと」本を買ってなんとかつじつまを合わせたことがある。

カラ出張も行われていた。
ほとんど全学科の全教職員がやっていたはずである。
なにしろ起票システムそのものがほとんどカラ出張を前提にした書式としか思えないものだった。領収書も、旅行計画書も、旅行報告書も何も要らない。ただ氏名と旅行先と旅行目的をずらずら書けば、現金が費目の上限までポンと支給されるのである。
おそらく教職員の中には、これを「給与の一部」と考えていたものもいただろう。
本俸を上げずに手取りをふやすために、適当な費目で現金を支給するということは労使間の「悪しき慣行」として(しばしば賃上げ要求に対する「妥協」の方策として)広く存在したものだからだ。
こういうふうにザルから水がもれるように日本の役人たちは長い間「税金」を垂れ流していたのである。
いまでもその体質はほとんど変わっていない。事情は省庁の外郭団体とか、公団とかいうところではもっとすさまじいのであろう。支給された予算を職員で山分けするためだけに存在する特殊法人も山のように存在するに違いない。
東大の副学長のように、それなりに本務もこなしている公務員でさえ、あれだけいい加減に予算を執行しているのである。だらけた公務員がどれほど税金をドブに棄て、懐にしまい込んでいるのか、想像を絶するものがある。
国家予算の相当額はそんなふうな仕方で「空費」されている。

しかし、私はここで深甚な疑問に逢着する。
なぜ、この無駄使いを取り締まることに行政はかくも不熱心なのであろうか。
あるいは、他のことではいろいろと教育にうるさい文句をつける経済界の方々が、こと「大学における税金の無駄遣い」については、なぜ一言の批判もなされないのか。
私に想像できる理由は一つしかない。
それは、「税金の無駄遣い」を「望ましい」と思っている方がそちら方面に多い、ということである。
考えれば分かる。
人は「自分の金」を使うときはシブチンだが、「他人の金」を使うときはたいへん気前がよくなる。
「カラ出張」で手に入れた数百万円は、本俸で頂く数百万円よりも、ずっと「乱費」されやすい。いかに悪逆非道の役人であっても、税金の上前をはねておいて、それをカメに退蔵して床下に埋めるということはしない。総檜造りの家を立て、ベンツに乗り、銀座で豪遊し、愛人にマンションを買い与える・・・という方向に彼の消費動向は宿命づけられている。
「濡れ手で粟」で手に入ったお金は、すみやかに社会に還元される。
これが「税金垂れ流し」のある種の経済効果なのである。
公務員を減らし「小さな政府」で健全な財政を・・という方向にほとんどの人が頭では同意しながらもイマイチ気分が乗らないのは、公務員が余るほどいて、「大きな政府」が信じられないような無駄遣いをする国家の方が、なんだかんだいっても消費活動は活発になるということをみんな知っているからである。
高速道路なんて作る必要がないということをみんな分かっていながら、とりあえずあれだけの数の政治家と官僚が必死になって赤字高速道路の建設を続けようとするのは、まさにそれが「無駄」だとわかっているからである。

「無駄なもの」に投じられたお金は、「有益なもの」に投じられたお金よりも、速く運動する。
これこそは(あまり知られていないことだが)経済活動の基本原則なのである。

「無駄なものに投じられたお金」は最後までそれと同質の「無駄なもの」に投じられ続ける。一方、「有益なものに投じられたお金」は、その後「有益なもの」以外の使途を避ける傾向にある。
「無駄な高速道路」を作るゼネコンは下請けに対する支払いでそれほどシビアな値切り方をしない。(だって、もともとが入るはずもなかった「あぶく銭」なんだから)
下請けの社長は、「あぶく銭」が入ったので、社員にボーナスを出し、自分は「ベンツ+愛人」方面に消費行動を加速させる。
社員は「けっ、誰も使わねえ高速道路を作ってボーナスもらっちまったぜ」と腐って、こんな悪銭身につけちゃ汚れるぜ、とばかりに不要不急の消費財に投じてしまうのである。
人間というのは、そういうものである。
現に、私は大学から貰った給料は「正当な対価」であるからけちけち預金しているが、出版社から振り込まれる印税は「あぶく銭」なので、アルマーニやらシャンペンやら色紋付などに投じて惜しまないのである。

「お金に色がついているわけではないし」と笑う人がいるが、それは短見というものである。
お金には色がついている。

「無益なものに投じられたお金」は、どこまでめぐりめぐっても無益な使われ方を求める。
正規の労働で得た賃金は退蔵され、不労所得はドブに棄てるように使われる。
前代未聞の不況下にある経済界産業界の方々が所得のありかたとしてどちらをより望ましいと思っているかは、考えるまでもない。

資本主義は構造的に公務員が腐敗することを要求する。
公務員が廉潔で、かつ資本主義が栄えるということはありえないのである。
私たちはそのどちらかを選ばなければならない。