8月3日

2003-08-03 dimanche

土曜はヤベッチの送別会。
ミネソタの州都セントポールという街に、二年間日本語教師のお仕事ででかけてしまうのである。
その壮図を祝して「うまのはなむけ」の一席を設けた。
シャンペンの乾杯から始まって、恒例のミュージカル版「お別れの歌」(ヤベッチ大泣き)、最後は全員で桑田佳祐の「希望の轍」を合唱して終わるという、初夏にふさわしい趣向のパーティであった。
矢部くん、元気でね。

翌日は例によって二日酔い。
昼過ぎまで寝ていて、ぼわっと起きだしてぬるいシャワーを浴びて人心地がついたところで、たまりにたまったレポートの採点。成績締め切りは5日であるが、前期が終わってからあと目の回るような忙しさでゆっくり机に向かってレポートを読む暇とてなかったのである。これを提出して、ようやく前期の仕事が終わる。
夕方に仕事を終えて、冷たいそばを啜ってぼわっとしていると花火が上がる。
芦屋の浜で花火を打ち上げているのである。
芦屋の花火を見るのは5年ぶりである。ベランダからもよく見えるが、エアコンの排気音でやや風情が殺がれるので、芦屋川の畔まで歩いて、涼風になぶられて橋の上から正面の花火を見る。
浴衣姿の人々がちらほらと夜空を見上げている。「橋に鈴なり」と言いたいところであるが、芦屋川の花火見物はまことに静かなものである。

本日をもって「節酒」を決める。
ガンマGTPも75で、別に内臓的には問題はないのであるが、さすがに寄る年波、飲んだ翌日に肝臓がフル回転してしまうと、頭にさっぱり血が回ってこない。
頭に血が回らないと商売にならない。
「禁酒」ということになると、社交上の差し障りがあるので、とりあえずは「節酒」である。
飲酒の問題点はつねづね申し上げているように、「そろそろ盃を置く加減かな」という「みきわめ」能力が酩酊と同時に消失してしまう点にある。
つまり、酩酊の本質というのは、「節度の喪失」ということにあり、それに尽きるのである。だから「節度をもって酩酊する」というのは、「死なないように殺す」というのに等しい論理矛盾なのである。
その論理矛盾にあえて挑むのが「節酒」という難事業である。
つまり「節度の喪失点」point of no return ぎりぎりの手前、ほんのり頬が紅潮した微醺(「びくん」と読むのだよ)というあたりで、さらりと杯を措いて、「これはちと、つい興にのって、過ごしましたようで・・・」と蹌踉と席を立つというようなのが、つきづきしくてよろしいのである。
こういうことができるようになると、男も一人前である。
ウチダもそろそろ五十路も半ば。いつまでも飲んだら最後「らりらりらー」というわけにはゆかないのである。