7月24日

2003-07-24 jeudi

文部科学省申請書類が一段落。月曜日にWGでの読み合わせがあって、そこで最終的に文案を練ることになるが、それまでちょっと「寝かせておく」。
不思議なもので、どんな文章でも二三日「寝かせる」と、「腐りやすいところ」「かみ合わせの悪いところ」が浮き上がって見えてくる。そこをちょいちょいと削ると、ずいぶん読みやすくなるものである。形容詞一つ削るだけでも、文章のトーンや肌合いは変わる。
私は基本的に「書きすぎる」人間である。
思ってもいなかったことを書いてしまって、それが「おお、こ、これは」というアイディアに結びつくこともあるし、テクスト全体の論理が破綻してしまうこともある。
だから、「しばらく寝かせて、壊乱的な『書きすぎ』箇所を削る」という作業は私にとってたいせつな工程なのである。

官僚的作文を寝かせているあいだに、紀伊国屋書店から頼まれた「翻訳の新思潮について」の2000字エッセイを書く。
さらさら。
「新訳で読みたい本」というアンケートがあったので、考えてみる。
読みたいのは

1・村上春樹訳のスコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(たぶん、いま日本人読者がいちばん待ち焦がれているのは、これだろう)

2・橋本治訳のジャック・ラカン『エクリ』(意外かもしれないが、今の日本で『エクリ』の「ほんとうの意味」を読み出せるのは橋本先生を措いて他にいない。問題は橋本先生がフランス語がお読みになれるか、ということなのだが・・・)

3・矢作俊彦訳のレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(いまの清水俊二訳『長いお別れ』も名訳だけれど、矢作訳でぜひ読みたい)

4・高橋源一郎訳のモーリス・ブランショ『終わりなき対話』(ブランショの批評装置の真の意味を理解しており、ブランショがこの650頁の大著の中で論じている古今の書物のほとんどを読んでいる批評家は日本にはひとり高橋源ちゃんあるばかりだ)

つづいて、『現代詩手帖』の高橋源一郎論の続きを書く。
さらさら。
3週間ほど前に『文藝春秋』から「日本・黄金の4000日・1964-74年」というアンケート依頼が来た。
その11年間で特に記憶にのこった出来事を200字くらいで書いてくれ、という趣旨のものである。
69年のことを書いて投函した。
すると昨日になって文春の編集長からお手紙が来て、「予想を上回る回答率の高さ」で、「紙幅に限りがある」ため、「すべての回答を掲載することができない」と言ってきた。
おいおい、なんだよ、書かせておいて、ボツかよ。
でも200字書くのに要した時間は40秒くらいだから、まあいいかと納得していたら、別の編集者から電話があり、文言の修正について確認を求めてきた。(引用していた書名が間違っていたらしい。69年の『漫画アクション』に一週だけ掲載されたマンガのタイトルをちゃんと言える人がこの世にはいるのである)
私の回答はなんとか「紙幅の限り」の中に滑り込めたようである(8月9日発売の『文藝春秋』9月号だそうです)

白水社の『ふらんす』が届く。私が巻頭エッセイを書いている。業界誌だから、同業者たちが今頃読んでいるはずである。きっとみんな怒っているだろう(私の書いたものを読んでいる人の顔を想像すると、たいてい怒っている顔なのである。なんでか知らないけど)。

資生堂の「ワードフライデー」というカルチャーセンターから出講依頼が来る。
はじめて聞くCCであるが、パンフレットを拝見すると、かなり「トンガッタ」講師陣である。(谷川俊太郎、嶽本野ばら、橋本治、山形浩生、山下洋輔、高橋源一郎、赤瀬川原平、みうらじゅん、ユーミン、竹宮恵子、加藤典洋、北方謙三、関根勤、山田五郎、嵐山光三郎、甲野善紀、及川光博・・・)
コーディネイターにひとり50年代生まれで『ガロ』系の人がいる、ということがはっきり分かるセレクションである。
11月頃の話なので、「その頃まで生きていたら、出ます」とご返事する。

村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2・サリンジャー戦記』が届く。
一昨日出てすぐ買おうと思っていたのだが、本屋にゆく時間がなくて、じたばたしていたら、柴田先生から献本して頂いた。らっきい。シバタ先生ありがとうございます。
さっそく読む。
ぐいぐいと引き込まれる。うーーむ、すごいね。
文学についての村上春樹の実作者としての確信の深さと、批評家に対する不信と軽侮の深さをともに感じる。
できあいの図式にあわせて、あるいは自分の個人的好悪に合わせて小説を読む批評家は、文学においてほんとうに重要なことを組織的に読み落とすだろう、と村上春樹は書いている。
日本の批評家はきちんと村上春樹のこの「挑発」に反論してみなければならないのではないか。
「文学批評とは馬糞のようなものである」とまで言っている作家に向かって「馬糞」みたいな批評を投げつけても、意味ないと私は思うぞ。

『少年カフカ』がなかなか読み終わらないので、寝しなに『海辺のカフカ』を再読する。
先週の「就眠本」は桐野夏生の『グロテスク』であった。
これはまたずいぶん救いのない本である。とりわけ慶応女子高の関係者のみなさんは激怒されていることであろう。
私は女性作家のものをほとんど読まない人間であるが桐野夏生だけは例外的に全部揃えている。
現代日本の女性作家で私の書棚に二冊以上並んでいるのは桐野夏生と田口ランディと中村うさぎだけである。(彼女たちにはいかなる共通点があるのであろうか)
だからといって、私を女性差別的な男権主義者であるとか、そういうふうに括られても困る。だって、隣の「マンガ」の書棚は、端から端まで、ほとんどぜんぶ女性漫画家のものだからである(高野文子と岡崎京子の新作もちゃんと買ったし)。

「何言ってんのよ。ウチダさんは、女性がマンガを書くことは許すけれど、文学を書くことは許してないだけじゃない。マンガは『女子供の読むもの』で、文学は『男子のもの』というかたちで表現ジャンルを無意識にジェンダー化しているからそういうことになるのよ」

なるほど。そういわれるとそうかも知れない。
でもさ、「ジャンル」(genre) って「ジェンダー」(gender) のフランス語表記でしょ。
だったら、「ジャンルがジェンダー化している」のって同語反復でしょ。
みんなで適当にジャンルをジェンダー化して、好きなところに棲み分けすれば、いいんじゃない。
現に日本の男性漫画家のメインストリームは手塚治虫以来、はっきり「女性ジェンダー化」しているし(大友克洋や鳥山明は手塚直系だから、きわだって「女性的」)。
でも、これは話が長くなりそうなので、また今度ね。