7月27日

2003-07-27 dimanche

ついに三軸修正法の池上六郎先生にお目にかかる。
芦屋のイタリアンレストラン・ベリーニ(私の家から歩いて30秒)で、三宅先生ご一家と池上先生ご一行とのご会食に招待されたのである(なぜかウッキーも「患者代表」として参加)。
池上先生の写真は今月号の『秘伝』で拝見していたが、想像よりずっと大柄で、ずっと陽気な方である。
どういうわけだが、活字で知った人については、誰についても「痩せて、眼鏡をかけて、毒気があって、ちょっと暗鬱な人」というイメージがついてまわる(私に会った人も、まず例外なく「背高い。ガタイでかい。よく笑う」という印象を「意外」とされる)。
池上先生も本に書いてあることは実に痛快にして爽快なのであるが、なぜか鶴の如き痩身で、刺すような眼光の老人を想像していたらまるで違っていた。
ビールで喉を潤すや、たちまち談論風発。極上のワインと美味なるイタリアンを食しつつ、温容に笑みを絶やさず語る池上先生に応じるウチダの舌もたいへんに滑らかとなる。
池上先生は元シーマンである。
シーマンというのは、陸に上がっても、独特のエートスを失わない(『夜霧よ今夜もありがとう』の石原裕次郎みたいに)。
それは「自由で流動的なもの」に対するほとんど無条件の愛である。

27日はまず午前10時から2時間私がお話をさせて頂き、午後1時から4時まで池上先生の講習会。
会場は私の家から徒歩30歩の市民センター。朝一の講演で、すこし寝ぼけ頭であったが、たいへんにフレンドリーな聴衆の方々であったので、気分よく最近思うこと(「響きを伝える身体」)について1時間半ほどしゃべる。
それにしても「ご縁」の不思議さである。
池上先生は今年の2月にこの同じ芦屋の市民センターで講習会を持たれ、そのときに、私の『寝ながら学べる構造主義』を取り上げられ、「ここには三軸自在修正法の原理的な考え方が書いてある」と聴衆のみなさんにお薦め下さった。
ところが、それを聞き伝えた市民センターの方が、「その著者のウチダという人は、この隣にすんでいて、来週、同じ401号室で公民館主催の講演会をすることになっている」と池上先生と三宅先生にお伝えしたのである。
「おお、これは奇しき因縁だ」ということで、そのあと三宅先生から私にご連絡が入り、私は三軸自在研究所の患者となり、宿痾の右膝を完治して頂くという幸運に浴したのである。そして、あれよあれよというまに、その三ヶ月後、私は池上先生の講習会のゲストスピーカーを相勤め、「池上先生とレヴィナス先生と多田先生の教えておられることは、帰するところ一つである」という話をすることになったのである。
驚くべきことに(驚いてばかりだな)、池上先生が身体技法に興味をもつようになったそもそものきっかけは、先生が乗務していた昭和30年代に客船にのって海外渡航する日本人のほとんどが(実業家も芸術家も音楽家も)中村天風先生の門人たちであったことによる。
「どうして、海外雄飛する日本人たちが一様に同じ師匠に師事しているのか?」という謎から池上先生の探究は始まったのである(という話を本日はじめて聞いた)。
その中村天風の私は孫弟子なのであるからして、「帰するところが一つ」であるのは、当たり前といえば当たり前なのである。
本日の私の演題は(あらかじめ池上先生に相談したわけでもなく)「出会いのご縁」、セレンディピティをめぐるものであった。そして、この講演会そのものが「出会いのご縁」とセレンディピティがまさに遂行される場となったのである。
まことにまことに不思議なご縁である。

私はこの三週間、週末ごとに佐藤学先生、光岡英稔先生、池上六郎先生と、「希代の人」と連続遭遇したことになる。
佐藤先生と出会うことになったのは学科長の業務命令によるものである。光岡先生は光岡先生から献本のお礼の電話を頂いて、話が不意に決まったのである。池上先生との出会いについては三宅先生がことごとく差配された。
いずれも、私自身は何もしていないうちに、まわりが「そういうふうになる」ようにとんとんと仕組んでくれたのである。
ご縁というのは、そういうものである。
「ご縁の人」甲野善紀先生と出会って以来、私にも「ご縁磁力」が帯電してしまったらしい。次々と「今、会いたい人」「今、会っておくべき人」との出会いの場に誰かが引っぱっていってくれる。

それにしても、池上先生の三軸修正法には驚かされた。
本を読んで理屈だけは何とか分かっていたのであるが、実際に目の前で見て、自分の身体を実験台にして経験すると、ただ「ええええ・・・」という他ない。

人間は地球上に存在するモノである以上、地球物理学的な作用(重力や磁力、地球の自転公転による影響)を受けているのは当然、というリアルかつシンプルな「実在論」的な技法原理がある。
ところが、その原理を実際に適用するに際して、池上先生はふいに「関係論」の水準に移行するのである。
池上先生の技法の中では、「モノ」の物理学と「ことば」や「意味」や「システム」の記号学が渾然一体となっているのである。

三軸修正法は「アラインメント」(alignment)の修正を基本とする技法である。
アラインメントとは、私たちがふだんよく使う意味では自動車やバイクのタイヤの車輪の回転方向の補正のことである。要するに一直線にものを並べることである。
だから、物理学的な意味では、地球の重力の方向(鉛直方向)に歪みなくすっきりと立つ体軸のことだと考えればよい。

しかし、alignment にはもう一つ重要な意味がある。
それは「対人関係における自己の位置づけ」という意味である。
これはもう地球物理学とは関係ない。
対人関係を共時的な空間の中で考えれば、その意味での「アラインメントの修正」は、「間の取り方」や「出処進退」や「礼法作法」を適切に行うということにある。
もし、alignment を通時的に理解して、過去から未来へ流れる時間の中での自己の位置づけとみなすなら、それは「霊的に生きる」ということであり、正しい「弔い」や「祈り」のかたちを知ることに通じるだろう。

池上先生と別れてから、そんなことをずっと考えている。
世の中は広い。
野に遺賢有り。メディアに出ないところで、とんでもないスケールの人が静かに、たくさん活動しているのである。
「三軸修正法って、どんなものですか?」というご質問がじゃんじゃんきそうだが、ウチダの管見をもってはもうこれ以上お答えのしようがない。
どうしても経験したいという阪神間の諸君は、岡本の三軸自在研究所で三宅先生の妙技に接せられたい(でも、どこも痛くない人はダメだよ)。