7月14日

2003-07-14 lundi

巴里祭(これはルネ・クレールの映画タイトルだな)
巴里祭人よ、あなたがたはわざわいである。
革命記念日。(なんだったっけ? バスティーユ監獄襲撃の日かな)

「かくめい」という言葉がインパクトを失って久しい。
「革命的」という形容詞も、もう誰も使わなくなった。
「革命軍」とか「革命戦線」とかを名乗る組織も、この10年くらいで、ほとんどが原理主義者かウルトラナショナリストの巣窟になってしまった。
困ったものである。
「恋と革命」がプチブル少年の甘い夢想を育んだ時代もちょっと前まであったのだけれどね。
どちらも消えた。
まあ消えたものをいつまでも惜しんでも始まらぬ。
つねに聖地はスラム化し、金科玉条は金○過剰となる(おっといけない。ひさしぶりに小田嶋隆先生の近著『かくかく私価時価』を読んだせいで、あっというまにオダジマ先生の語法に感染してしまった。女子大教師の公式ホームページにあってはならない語句だな)

しかし、オダジマ先生の言語感覚にはまことに驚嘆すべきものがある。
地下鉄丸の内の「後楽園」を「うんこくらえ」に読み替えた少年期においてすでにオダジマ先生の言語感覚は特権的ブレークスルーを経験されたのであるが、近著ではそのドライブ感は技神に入るの境地に達している。
まだお読みになっていない方のためにオダジマ先生の言語感覚の一端をご紹介しよう。
「新しい歴史教科書をつくる会」についてコメントされた2001年9月のコラムから。

「『新しい歴史教科書』という言い方も気に食わない。『新しい』って、歴史を改訂する気か? いいか? 歴史はそもそも過去の事実である以上改訂不能なものだ。仮に歴史を更新しようとする者があるのだとすれば、それは事実を歪曲ないしは捏造しようとする勢力にほかならない。違うか?

『いや、歴史が改訂不能だというのはいくらなんでも硬直的だと思いますよ』

そうか?

『歴史というのは過去の事実である以上に、その過去の事実に対する解釈なわけです』

うん、そうかも知れない。

『とすれば、解釈である限りにおいては、それは百人百様で、結論は出ないわけです』

結論が出ないんじゃ教科書は書けないぞ。

『ですからなるべく断定的な言い方は避けて、両論併記を旨とし、事実についても〈あったらしい〉というふうに含みを持たせた表現を心がけてですね・・・』

・・・で、おまえ、もしかして

『そうです。〈あったらしい教科書を作る会〉の者です』

だからさ、この期に及んでそういうふうに話を紛糾させるような会を・・・

『史観無くして歴史無し。肝心要の歴史観が揺らいでいるようでは歴史的事実を云々する資格もないと言えましょう』

おお、明快なご意見。

『人類の歴史は階級闘争の歴史であったと、ここのところをまずはっきりさせ・・・』

い、いきなり中学生の教科書には・・・

『歴史に子供用も大人用もありません。学問はすべからくプロレタリア独裁の・・・』

・・・も、もしかしてあなたは

『そうです。〈アカらしい教科書をつくる会〉の者ですが、何か?』

『っていうかさ、歴史をどう考えるかも含めて個人の自由なわけでしょ? 憲法が保障している思想信条の自由ってのはそういうことじゃないですか。だとしたら、教科書があること自体ヘンなワケですよ』

・ ・・かもしれないな。

『だからね、歴史の教科書は白紙でオッケー。一人一人の生徒が一から作ることから本当の自分らしさが・・・』

・・・もしかして、君は〈あなたらしい教科書をつくる会〉とか?

『ははは、全部ひっくるめて、〈あほらしい教科書をつくる会〉だよ』」

ダジャレに批評性を載せるというようなことはよく凡人のなしうることではない。現代日本でこの秘術を駆使しうるのは、ひとりオダジマ先生あるばかりである。

18時から「トップ100校WG」の四回目の会議。
今日の会議で、文部科学省に申請する事例を選定しなければならない。
2時間半にわたる議論の末、学長の決断で「大学全体の少人数教育への取り組み」を選ぶことにした。
単にクラス編成が少人数であるというだけでなく、2000人台の小規模校であることの意義、インタラクティヴな授業形式、きめ細かな学習支援体制といった取り組み全体を「21世紀のありうべき市民的リベラルアーツ」という包括的教育目標めざして「一糸乱れず」進行しつつある改革プロセスとして記述するという大業がウチダに課せられた。
いかに官僚的作文の名手とはいえ、これは大仕事である。
官僚的作文とはいえ「嘘を書く」ことは許されない。真実のみを語り、かつ「おお、本学の現実は『こんなふうにも』見えるのか!」と同僚諸君が驚倒するような意外性のある視点からの記述をはたさねばならぬ。
しかし、このコンペのためにWGをもったことはたいへん有意義なことであった。
今後五年間にわたってこのコンペは継続するのであるが、初年度に選定されなくても、次年度以降「人間科学部の実験実習科目の取り組み」「英語教育における徹底した少人数教育の取り組み」「音楽学部におけるアウトリーチの取り組み」「授業評価アンケートのFDへの実効的フィードバック」「教員評価システムの導入とリソースの重点配分方式」といったまだ着手してまもないので、十分な成果を上げていないが、いずれ実効性が確認されるであろう取り組みがいくつか前景化した。そのうちいくつかは五年間のあいだに必ずトップ100に選定されるであろう。
それぞれの取り組みは何人かの教員の発意に基づく自然発生的なものであり、全学的なグランドデザインがあって始まったものではない。
にもかかわらず、一望すると、すべての取り組みはあたかも「学長の見えざる手」によって周到に配列されたかのように整然とプログラムされているのである。
ということは、本学の教職員諸君はけっこう「言わず語らず、気心が知れている」ということなのかも知れない。実は仲良しだったんだね、みんな。
というわけで初年度の申請は率直に申し上げて、選定は容易ならざるものとなることが推察されるのであるが、次年度以降はそこそこの「打率」を残せそうな気がする。長い目でみてやって下さい。