7月12日

2003-07-12 samedi

佐藤学東大教授を迎えての総文シンポジウム「新しい教養教育をめざして」が開かれる。
このシンポジウムは前学科長の上野輝将先生の提唱で今年三月に始まったもので、21世紀の大学教育はどうあるべきかについての真剣にして意欲的な対話の場である。今回が二回目。
佐藤先生は著書からそのラディカルで透徹した知見に久しく敬意を抱いていたが、今回はじめて拝顔の栄に浴した上、シンポジウムの席で直接お言葉を交わす好機を得ることができた。まことにらっきいなことである。
正午に大学にお迎えしてから、午後五時すぎにJR西宮駅にお送りするまで、まるまる5時間佐藤先生の湧き出るようなお言葉を拝聴することができた。ほとんど五時間しゃべりっぱなしなのに、それでもまだまだ話し足りなそうであった。(駅まで送るわずか数分間の車中でも女子大学と身体性の問題についていきなり本質的な話が始まってしまった。うう、もっと聞きたかった)。
得るところは非常に多かったけれど、もっともうれしかったのは、教養教育の再構築をめざす私たちの努力の方位が間違っていないと確信できたことである。
それを思いつくままに羅列すると。

(1)教養の根幹をなすのは、知識やスキルではなく、「学び方」を学ぶことである。

(2)20世紀初頭に日本で失われた全人的な「修養」の伝統が再構築されねばならない。

(3)修養の本質は「他者と出会う能力」にあり、それは端的に言えば他者の経験に共振する「読書する能力」と「身体感受性」である。学校で学ぶべきことは畢竟この二つに尽きるのである。

(4)絶対的他者とは死者であり、もっとも絶対的な死者とは「死んだ私」である。(この話は会場ではなく、控え室で伺ったもの。いま書いている『レヴィナスとラカン』の主題はまさしくそのことなので、思わず「そ、そうなんですよ!」と応じてしまった)。

(5)つまり、上の話を敷衍すると(ウチダが勝手に敷衍しちゃいけないんだけど)、「学ぶ」とは「他者に出会う仕方・作法」を習得することであり、「他者」とは「死者」のことであり、絶対的死者とは「死者としての私」なのであるから、「学び」の窮極の水準は「生死のあわいにおける適切なふるまい方についての術」である霊性と身体の修業に収斂することになる。

(6)他者の生死を気遣うことは「ケア」(聴くことと癒し)として、自らの死を気遣うことは「学び」として、万象の生滅についての気遣いは「祈り」として分節される。

(7)学びとは「不能と無知の覚知」そのものが快楽として経験されることである。一人の人間がそのつどつねに未完成であり、かつ決して完成に至ることなく死ぬという「永遠の未決性」が学びの開放性と快楽とを担保している。

(8)教養教育とは「学ぶことのできる人間」を作り上げることである。実定的な知識やスキルをかたまりとして与えることではなく、生きて行く上でそのつど必要な「知識やスキル」を適切に選択し、取り入れてゆくことのできる開放系としての知的基体を作り上げることである。

などなど。
もちろんその他に驚嘆すべき数々の知見に接したのであるが、詳細はこのシンポジウムの結果をまとめた本が出るので、それをお読み頂きたい。
印象的だったのは、佐藤先生の語り方そのものが「教養教育」として機能していた、ということである。
聴衆一人一人にまっすぐ目を向け、向けられる質問に深く頷きながら小声で「そうそうそう」と絶えず承認を与え、佐藤先生を取り巻くすべての人々が「余人を以ては代え難い、かけがえのない対話者」として位置づけられるように配慮されていた。
その人と出会ったことによってこちらの頭の中に無数のアイディアが湧出し、渦巻き始めるような人、そのような人こそ「他者」や「学び」についてただしく語ることのできる人である。
佐藤学先生はまことに希有の人であった。ここからまたある種の「ご縁」が始まってゆくことを祈念したい。

来週はこれまた「希有の人」である光岡英稔先生がおいでになる。
秋には小林先生のコーディネイトで舞踏家の岩下徹さんをお招きする予定である。
甲野善紀先生もチョー多忙生活が一段落したらまたお越し頂きたいし、ドクター名越にもぜひ講演に来て頂いて「精神疾患と呪詛の因果関係」や「生き霊の避け方」などについて有益なお話を伺いたいと思っている。
どこかよそへでかけなくても、岡田山にいれば、時代の最先端の知見と技法に出会うチャンスがあるというのは学びの場にとって、とても大切なことだ。岡田山をそういう「出会いの場」とするためにも、さらに「ご縁」ネットワークを展開してゆきたいものである。