7月9日

2003-07-09 mercredi

『現代詩手帖』の高橋源一郎特集のために「史上最強の批評装置『タカハシさん』」という原稿を早起きしてばりばりと書く。
高橋源一郎が文学批評家として特権的地位にあるのは、彼が「タカハシさん」という語り手を得たことによる、という趣旨の論考。
『タカハシさんの生活と意見』まで、高橋源一郎の批評文の主語は「わたし」か「ぼく」か「おれ」であったが、93年から「タカハシさん」という三人称化された批評的視座が登場する。
その視座がどのような文学史的前史を持つものであり、現にどのように機能しているのか、ということを縷々書き綴ってみる。
これはなかなか面白いものが書けそうである。『現代詩手帖』出たら読んでね。

書いているうちに時間になったので、ひさしぶりに下川先生のお稽古。
『井筒』の謡をおさらいしてから『融』の舞囃子に入る。
来年の会では『融』と素謡『通小町』のシテがついた。

稽古のあと走って学校へ行って、大学院学内選考の面接。
今年の受験生は8名。ひとりひとりと話し込んでしまったので、二時間半もかかってしまった。

へろへろになって帰宅。
ワインを片手にクロード・シャブロル『いとこ同志』(1959年)を見る。
びっくり仰天。
だって、これ一昨日の晩見た『狂った果実』とまったく同じ話なんだもの。
中平康の映画の方が二年早い。でも、シャブロルがぱくったとは考えにくい。(いくらなんでもパリじゃ日活映画見られないからね)
しかし、ジェラール・ブラン=津川雅彦、ジャン=クロード・ブリアリ=石原裕次郎、ジュリエット・メニエル=北原三枝という人物設定はまるで「ふたご同志」のように似ている。(ジャン=クロード・ブリアリの芸風と風貌は石原裕次郎より岡田真澄だけど)
純真な従弟が夢中になる「すれっからし女」に「あいつには手を出すな」とよけいなおせっかいをしているワルの従兄が「それより、オレとつきあわない?」と言い出すアパルトマンの場面は、葉山のナイトクラブの中庭での石原裕次郎が北原三枝を詰問する場面と、せりふまでいっしょ。
ソルボンヌ大学のワル学生たちの無軌道な遊びぶりも湘南で遊び回る太陽族学生とほとんど変わらない。
不思議な符合だ。
あるいは、『いとこ同志』と『狂った果実』が「同じ話」であるというのは、映画史的「常識」であって、知らなかったのは私一人なのかも知れない。

奇しくも同じ時間にTVでは石原裕次郎の「十七回忌」特別番組をやっていた。
奇しくもゆうべ読んだアキラの自伝『さすらい』によると、『狂った果実』の津川雅彦役は小林旭がやるはずだったのだが、日活上層部の営業判断で直前になって新人の津川雅彦にキャスティングされたそうである。

ユング先生であれば、ニカっと笑って「ね、これをして『シンクロニシティ』と言うのだよ」と断言されることであろう。

そういえば、先日インタビューを受けた『BRIO』の編集者から「映画評のコラムを書きませんか」というオッファーがあった。
「そんなこと言われても、私、いちばん最近見たの『嵐を呼ぶ男』ですよ。私の映画鑑賞態度にはまったく今日性がないですから」と申し上げたのであるが、「今日性なんかなくてもいいですから」というご返事であった。
「おとぼけ映画批評・連載第一回『嵐を呼ぶ男』」「第二回『いとこ同志』」「第三回『仁義なき戦い・代理戦争』」「第四回『喜びも悲しみも幾歳月』」「第五回『酔いどれ天使』」なんていう反時代的企画が通るようなら、連載OKするかもしれない。(でも、そんなコラムをいったい誰が読むんだろう?)(私なら読むが)