7月2日

2003-07-02 mercredi

『第三文明』の広告に顔写真が大きく出たことで、あちこちから電話やメールが来る。
「いったい、どういう了見なのだ」と詰問する方が多い。
「ウチダ先生は創価学会員だったのですか?」という問い合わせまであった。
どうも世間のみなさんは『第三文明』のような「傾向的」刊行物に対しては、ある種の警戒心をお持ちのようである。
私はこれまでインタビューや寄稿の依頼を選り好みしたことがない。
TV出演を一回断ったのと、「写真はダメ」と言ったら先方から断ってきたのが一件あるだけである。
『前衛』が来ても『正論』が来ても(どちらも来ないと思うが)、私は喜んでお仕事をさせて頂く。
当然ながら、メディアごとに寄稿者に「書いて欲しいもの」は違う。
想定されている読者の年齢も性別も職業も政治的立場も信教も価値観も、メディアごとに違う。
書き手はそれに合わせて微妙に書き方も書く内容も変える。
「どのメディアでも私は首尾一貫、書き方も主張も絶対に変えない」というのは威張れる話ではない。その不自由さは教師に対しても、友だちに対しても、同じ言葉遣いでしか話せない中学生の言語能力の不足と同根のものである。

相手に合わせて話を変え、語り方を変える。
機に臨んで、変に応じる。

いまさら私が言うまでもなく、それは他者と共に生きるときの基本である。
私が「写真はダメ」というのは「どのメディアとも仕事をします」という立場に通じている。
「顔写真」というのも人々が見たがるのは「顔を見ると、それが『何もの』であるか分かる」からである。
「ああ、こんな顔しているのか。なんだ、この程度の奴なんだ」ということが「分かって」その人物についての評価に決着をつけられるからである。
写真というのは運動するものを瞬間的に切り取って固定する「ストック趨向性」の非常に強い表象手段である。
若い人たちが使い捨てカメラや携帯でばしゃばしゃと写真を撮りたがるのは、変化するもの、移ろいゆくものを固定化し、分類し、タグをつけ、カタログ化し、「ストックしたい」からである。
フーコーは「ストック趨向性」のことを端的に「権力」と名づけた。
若く非力な人間は、当然のことながら、この世でもっとも権力的な存在である。(「権力的」であるだけで、実際の「権力」は持っていないので、その事実が前景化しないだけのはなしである)
だから、若い人が好むところの写真は権力的な表象手段である。
私は他人に「タグをつけられる」のが嫌いである。
写真に撮られると、私のある種の「本質」がありありと露出する。たしかに、それは私である。でも、私は「それだけ」じゃない。
ある一点において把持されるということ、ある側面だけで眺められ、印象を固定化されるということに私は言いしれぬ不快を感じるのである。

にもかかわらず、私が写真を撮られても「平気」という場合がある。(斎藤さんのウェブサイトに掲載してあるけれど)、それは「他の人といっしょに撮されているとき」である。(ここでは甲野先生と名越先生とのツーショットが掲載されている)
どうして、顔写真を撮られることのキライなウチダが、ツーショットはOKかというと、甲野先生といるときの私は「甲野先生といるときのウチダの顔」をしているからである。名越先生といるときの私は「名越先生といるときのウチダの顔」をしているからである。
ひとといるときの、私の顔は「誰かといる」顔をしている。
個別その人とだけコミュニケーションしようとしているので、顔のどこかに「開かれ」が確保されている。そこには「この人はこの人といっしょにいるときだけ、こういう顔をするけれど、ふだんは違う顔を持っている」という潜在的なメッセージが帯同している。
それが「ストックされる」不快感を払拭してくれるのである。
誰かといっしょのときは、一人で撮るときよりも、表情が「あいまい」になって、どこか焦点のはっきりしない「とらえどころのない顔」になっている。
そして、その「あいまい」さ「とらえどころのなさ」は、相手によって微妙に違っている。
私はそういう自分の顔写真はキライではない。
そこには「ストックされること」に抗う「フロー趨向性」が現れている。

これまで撮られた写真でわりと好きなのは、朝日のカメラマンが撮った合気道のときのスナップである。
武道的な動きをしているとき、人間は「一点において把持される」というところからもっとも遠いところにいる(当たり前だけれど「とらえられる」ということは、武道的には「死ぬ」ことを意味している)。
その写真は私の動きの中の「とらえどころのなさ」を探しだして、そこに焦点を合わせて、それを図像化していた。
そういう写真なら撮られてもいいんだけどね。