7月1日

2003-07-01 mardi

疲労の六月が終わり、夏休みカウントダウンの七月となった。やれやれ。

今日の大学院の演習のテーマは「司法とマスメディア」。発題者は司法浪人の影浦くん。
松本サリン事件、和歌山ヒ素事件を題材に、裁判所で判決が出る前にマスメディアによって実質的な社会的制裁がなされてしまう事態を批判してくれた。
影浦くんの言うのは正論である。
しかし、ウチダはいかなる「正論」に対してもつねに「アヤを付ける」ことを教師の教育的配慮の一つと心得ているので、さっそく反論を試みる。

メディアが裏付けのない予断によって市民を犯罪者扱いにして、社会的に抹殺することはもちろん許されることではない。
しかし、そのような予断を完全に制限することは不可能だし、なすべきでもないと私は思う。
「疑わしきは罰せず」と言うが、逮捕、起訴、裁判、判決、どの段階で私たちが被疑者によせる「疑わしさ」は「確信」に変わるのか?
たしかに最高裁で判決が下されれば、制度的には正邪理非はあきらかになり、「疑わしさ」を「確信」に切り替えてよい、ということになるであろう。
しかし、ほんとうにそうしてよいのだろうか?
現に私たちは最高裁判決のいくつかについて懐疑的であることが多い。最高裁判決に対して涙で抗議する人々や居丈高に論難する有識者を私たちはメディアでよく拝見する。法制上の終局判決が「客観的事実」と同じだけの事実性の重みをもっていると私たちは感じていない。
つまり、ある犯罪について「疑わしさ」が「確信」に切り替わる決定的契機というのは、法律的擬制としてしか存在しないのである。
「そのとき何が起きたのか」については、つねに一抹の「疑わしさ」がついてまわる。
それはどれほど証拠を並べ立てても、どれほど時間をかけて検察弁護の言い分を吟味しても「ほんとうに、そうなのだろうか?」という疑惑は(タイムマシンに乗って、犯行の瞬間に立ち戻らない限り)完全には払拭されない。
だから「疑わしきは罰せず」という法諺を文字通りに適用すれば、逆説的なことに、司法制度そのものが不可能になってしまうのである。
法律で言う「疑わしさ」や「確証」は擬制であって、事実ではない。
だからメディアに向かって、「最終的な判決が下るまでは、被疑者についていかなる予断も持ってはならない」と要求しても、メディアがそれを受け容れるはずはないのである。
そもそも私たちは現にマスメディアの「制裁機能」を準-司法的な制度としてすでに受け容れている。
判決にあたって、裁判官が「被告はすでに十分な社会的制裁を受けており・・・」という説明によって量刑を加減するということは現に行われている。この言葉は司法制度以外の社会制度が「信賞必罰」という社会的機能の一部を補助的に担っていることを暗に認めている。
私たちがメディアに要求すべきなのは、「疑わしきは罰せず」という原則の遵守ではなく(それは不可能である)、メディアはどのような準-司法的機能を担うべきか、についての議論の深化と社会的合意の形成である。
メディアの過熱する犯罪報道についてはきびしい批判をする人が多い。
しかし、法律的判決以前に、すこしでも速く、それとは別の(もっと厳密でない)基準によって、被疑者への社会的制裁がなされることを切望しているのは、私たち自身なのである。
推定と予断に基づく社会的制裁を厳密に禁じた場合、私たちの社会は今より住み易くなるだろうか?
これは頭をクールダウンして計算すべき論件であるように私には思われる。

山本浩二画伯が用事で大学に来たので、ゼミのあと、画伯のご案内で武庫之荘のイタリア料理 GLORIA に行く。
画伯はうまい飯屋を発見する天才であるが、この GLORIA も素晴らしかった。
生ハム、自家製パン、オリーブオイルとジャガイモのパテ、まぐろと茄子とピーマンの前菜、海鮮の手打ちパスタ、そしてワイン・・・いやー。堪能しました。これはもう。
武庫之荘北口の人通りの少ない路地裏にあるので、まだほとんど名前が知られていない店だが、イタリア料理にあれだけうるさい画伯とパスタ大好き男のウチダが口を揃えて「うまい!」というのであるから、そのレベルは推して知るべし(電話:06-6438-7229。定休日は水曜)※2019-03 現在閉店(管理者追記)