6月29日

2003-06-29 dimanche

オフなので『レヴィナスとラカン』の原稿をばりばり書く。
ばりばり書きすぎてはや400枚。
もちろん、まだまだ入り口のところで、他者=死者論の本題に入るのは、これからである。このまま書けば500枚は優に超えてしまうであろう。
もちろんそんな分厚い本を海鳥社が出してくれるはずもないので、これを半分近く削らなければならない。だから、多少とも『レヴィナスと愛の現象学』と内容的に重複するところはすべてカットということになる。
とはいえ、先に『レヴィナスと愛の現象学』を読まないと話が繋がらないというのでは、あまりに読者に対して失礼であるので、単独で読んでもすいすいと読めるような構成にしつらえなければならない。
いろいろ大変だ。
しかし、読めば読むほど、ラカンもレヴィナスもほとんど「同じこと」を言っていることが分かる。
だが、それでもときおり「違うこと」も言う。
この二人が口を揃えて「同じこと」を言っていれば、これはまず「賢者の洞見」と申し上げて差し支えあるまい。
にもかかわらず「違うこと」も言っているとしたら、それはそれぞれの知者の「個性」と申し上げて差し支えあるまい。
『セミネール』と『存在するとは別の仕方で』を並べて机の上に置いて繙読すると、あまりの知の深みに圧倒される。
すごい、ほんとに。
こういう本が日本語で読めるというのはまことにありがたいことである。
小出浩之さんほかの『セミネール』の訳者たちと合田正人さんのご苦労にはどれほどの感謝を示しても十分すぎるということはないであろう。

感動にふるえつつ、日が暮れたので元町に出かけて、別館牡丹園でタンメンと揚げワンタンとビールで腹ごしらえをしてからシネ・リーブルへ。
『沙羅双樹』を観る。
観客7名。
私は客の少ない映画に対しては好意的になる傾向があるので、この映画もたいへん愉しく観ることが出来た。
「バサラ祭り」の打ち合わせの場面などは、果たしてどこまでが「演技」でどこからが「真実」なのか、虚実の皮膜がおぼろげになる。
大林宣彦の「尾道三部作」にも通じる、「土地の霊力」を動員した映画作りだ。
「道」には不思議な力がある、ということを大林も河瀬も直感的に知っている。
すぐれたフィルムメーカーは多かれ少なかれ土着の巫者の資質を備えている。だから彼らは風の予感や空気の湿気や土の熱っぽさや雨の臭いをくっきりとした輪郭をもつ映像記号として感知し、それをフィルムに定着することができる。
そのことがこの映画を観ると分かる。