6月18日

2003-06-18 mercredi

気候が悪いせいと、疲れがたまっているせいで体調不良。
6月って、毎年そうだけど。
月曜には発熱、火曜にはメバチコが出来て、水曜には肩がうずく。
寸暇を惜しんで、ひたすら眠るばかりである。
三軸自在の三宅先生のお見立てでは目の疲れで右半身がだいぶ歪んでいるようである。
右の膝が痛んで「運動禁止」を申し渡されたのが一昨年の三月、右の腰部に激痛が走って受け身が取れなくなったのが去年の8月。それから秋に右の鼻が炎症を起こし(まだ治らない)、先月右足首を捻挫して、先週右の上の歯茎が腫れて、昨日右肩が痛み出した。
全体に発症が右に偏っているのであるが、鼻の炎症については三宅先生のご託宣では、鼻の軟骨が右に歪んでいるのが原因とのこと。
これは理由がはっきりしている。
忘れもしない1970年の9月、空手部の稽古(忘れもしない旧駒場第一体育館)で、A井というOBに殴られて鼻を折られたのである。
あ、思い出したらだんだん腹が立ってきたので書くことにする。

このA井というのは卒業してM物産に勤め始めた先輩である。新人サラリーマンのストレスがよほどたまっていたのか、しょっちゅう酔っては駒場寮にやってきて一年生イジメをしていた。
ときどき夜中に叩き起こされて道衣に着替えさせられ、「銀杏並木端から端まで順突き突っ込み」というような無法な稽古を強いられたり、のみたくもない酒を呑まされるので、寮生たちからは蛇蠍の如く忌み嫌われていた。
このA井がある夏の午後、稽古にやってきて、ビールと日本酒を差し入れた。
いくら稽古終了後とはいえ、昼日中、日向に置かれたぬるいビールと日本酒を「呑め」と言われて呑みたいはずがない。一年生たちはがまんして紙コップに注がれるぬるいビールを飲み下していたが、お酒をのめない一年生もいる(みんなまだ未成年なんだから)。
その一年生たちに向かって昼酒で赤く濁った目をしたA井が「先輩のつぐ酒が呑めんのか」としつこく睨み付けるのである。
私はこの男の下司な根性にほとほといやけがさしていたので、隣に坐って呑めない酒を手におろおろしていたK木君の紙コップを取り上げて彼に代わって飲み干し、そのまま床に置いてあった日本酒の瓶をつかんで、A井の紙コップにどくどくと注ぎ足し「おら、干せ」といつものA井の声色で凄んでみせた。
A井は蒼白になってそのままコップ酒を飲み干し、私をねめつけて「よし、組手をしよう」と言い出した。
先輩たちはなんとかとりなそうとしたけれど、私も頭に来ていたので、「はい、やりましょう」と言って立ち上がり、いきなりA井に蹴りを入れた。昼酒に酔って足元の定まらない新入生のへなちょこな蹴りをA井はあっさりかわし、右正拳を私の鼻面に叩き込んだ(A井は二段、私はまだ級外であった)。
私はその一発で失神してしまった。
先輩たちの「ウチダ、とんでもないことをしてくれたな・・・先輩に手を出したら、もう部にはおられんぞ」と私をかついで寮に戻るときの愁訴だけが断片的な記憶の中に残っている。
私は退部処分となり、数日後に駒場寮の空手部室から荷物をまとめて出ていった。そして、この世のあらゆる「体育会的なるもの」と無縁の人となったのである。
以来、私の鼻の軟骨は曲がったままである。
私が本学の合気道部を「文化系」クラブと称しているのはジョークでもなんでもない。A井に人格的に表象されるところの「体育会」的文化を死ぬまで許さないというウチダの決意の表れなのである。
鼻が詰まるくらいのことは我慢せねばならぬ。
今でも、東大気錬会の稽古で駒場の第一体育館を訪れるたびに私は十九歳の私を駆り立てた青黒い怒りを思い出す。
ウチダはほとんどのことを忘れてしまう人間であるが、ときどきたいへんに執念深い人間にもなる。