6月10日

2003-06-10 mardi

ゼミで「食べ物」の話をしたら、大学院は「家族」の話。
この二つの論件のあいだにはなかなか深い繋がりがあるような気がする。
「個食」ということばをしばらく前からときどき見かけるようになった。一人でご飯を食べることである(私もほとんどの場合「個食者」である)。
これと対になる概念は「会食」だろう。(「共食」でもいいんだけど、「ともぐい」と読まれると困るしね)
「会食」は共同体を基礎づけるもっとも基幹的な儀礼である。あらゆる集団は共同性の打ち固めのために、集団成員が集まり、食料と飲み物を分かち合うという儀礼を有している。会食儀礼を持たない共同体はおそらく存在しない。
個食者の増加と、家族の解体はだいたい同時並行して進行しているように思われる。
「そんなの当たり前じゃないか。家族がばらばらになったら、食事だってばらばらになるのは」と言う方もおられるであろう。
もちろんその順序でことが起きたのであるなら、その通りである。
しかし、私にはなんだかことの順逆が逆のような気がするのである。
「会食」の習慣が廃れたことによって、家族はゆっくり解体し始めたのではないか。
「会食」を空洞化した最初の契機は「TVみながらご飯」であると私は思う。
私はTVを見ながら(あるいはラジオを聴きながら、本を読みながら・・・)何であれおよそ「ながら」食事をすることを厳禁する家庭に育ったので、高校生のころ、友人の家で、家族全員がTVを見ながら食事をしている風景を見たときのショックは大きかった。
誰も食べ物を注視していない。全員が無言で、TVの画面をみつめており、たまに誰かが「石川さゆりも老けたわね」(@小田嶋隆)というようなコメントを小声でつぶやくのであるが、それに返答するものとていないのである。
「TVを見ながら会食」というのは、おそらく主観的的には「祭儀をしながら会食」「歌舞音曲を楽しみながら会食」という人類学的活動の「今日的表現」として了解されているのであろう。
しかし、根本的な違いがある。
それはTVの中にいる人間は家族の一員ではない、ということである。
だから、TVの中で歌ったり踊ったり説教をしたり祈りを捧げたりしている人間に「共感」することで、TVを見ている人間たちが一つに結びつくということは原理的に起こり得ない(起こり得るとしたら、家族全員が同じ宗教の信者であって、その「教祖様の説教」を見ている場合や、家族全員が同じ政治党派の活動家であって、その「党首さまの演説」を拝聴している場合に限られるであろう)
むしろ人々は、TVを見ている隣の人より、TVの中の人間とのあいだに、より強い「共感」を感じてしまう、ということはないのだろうか。
TVの中にいる人間は、家族の一員ではない。
しかし、石橋貴明はどう見ても隣でぼりぼりタクアンを囓っている父親よりも「オレの気持ちが分かっている」というふうに14歳の少年が感じることはとどめがたい。
TVは「外部へ通じる窓」であると同時に、家族の「会食」儀礼が集団統合的に機能することを根本的なところで阻害する装置であるに私には思われる。

会食がなぜ大切か。あるいは、どうして恋人同士はデートのときに「とりあえず、何か食べる」のか。
それは、会食が「愉しい」からではない。(ほとんどすべての場合がそうであるように、ここでも原因と結果を私たちは取り違えている)
そうではなくて、人間関係が愉しいと「ご飯が美味しい」からである。
私たちは「愉しい人間関係を取り結んでいる」という事実を身体的に確認するためにいっしょにご飯を食べるのである。
私たちは自分のかたわらにいる人間をほんとうは自分が愛しているのか愛していないのか、尊敬しているのかうんざりしているのか、畏怖しているのか嫌悪しているのか、「頭では」判定することができない。
それは身体の仕事である。
嫌いな人間と並んで食べていると、大好物のカツカレーも紙のような味しかしない。
だから、「大好物のカツカレーを食べても、紙のような味しかしない」ような気分にさせる相手は、あなたが今後できるかぎり関わりを避けるべき人物である。
あこがれの人と初デートをして、いっしょにご飯を食べていたら「食欲がまったくなくなった」という場合、その相手は「あなた向きではない」ということを「身体が」予言しているのである。
逆に、知り合って日も浅いのに、いっしょにご飯を食べていると何だかやたらに美味しく感じる人というのは、これから先もずっと愉快なご縁のある方である。
「いっしょにご飯を食べる」というのはリトマス試験紙のような検知装置である。
いっしょにご飯を食べていて、美味しければ、その関係はグッド。不味ければバッド。
まことに分かりやすい。
カップラーメンでも、「その人」といっしょに食べていると山海の珍味より美味と感じられたら、「その人」はあなたにとって大切な人なのである。満漢全席(古いたとえですまぬ)でも、「その人」といっしょに食べているとマクドの59円ハンバーガーよりまずい、という場合は、「その人」はあなたにとっていずれ無縁の人なのである。

だから、家族はいっしょにご飯を食べる。
いっしょに美味しいご飯を食べて共同体の絆を深めるためだけではない。
「そろそろ、この家も出て行く頃合いかな・・・」ということを察知する「飯のまずさ」という正確無比なる指標をチェックする、それが機会でもあるからだ。
いっしょにご飯を食べていて、「不味く感じたら」、それは「そろそろ、この場もお開き・・・」という予告信号である。
だから、人々は食事のときにTVを見る。
どうしてかって?
もちろん、ご飯の味を分からなくするためである。
自分が「いてはならない」場にいるという事実の認知を一日延ばしにするために、人々は見たくもないTVを凝視し、面白くもない新聞を読み、「オレ、飯いらね」と階段を駆け上がり、「ご飯、パス」と玄関から駆け出るのである。
そうやって人々は「ご飯が不味い」という事実から必死に目を背けているのである。
げにご飯軽んずべからず。