6月7日

2003-06-07 samedi

公開講座「これで日本は大丈夫?」。
久しぶりの講演であるので、二三日前から、「何をしゃべろうかなあ・・・」と気にかかっていた。
何も考えずにごろごろしているうちに平川君が遊びに来た。
ふたりでわいわい騒いでいるうちに、「そうだよねー」と意見が合った話は、少なくとも私以外にもう一人同調者がいるわけである。そうであれば、私ひとりの妄説よりは共感していただける可能性が高い。
というわけで、ドラッカーの「好天型モデル」から「悪天候型モデル」へのシフトとか、「ポストバブル期」のビジネスであるとかいう、おとといの夜仕込んだ請け売りネタを「つかみ」に使わせて頂くことにした。
「同罪刑法的思考」に基づく戦争責任戦後責任「清算」論は無時間的モデルだから、そこに時間的ファクターを入れ込まないと、結果的にはナショナル・アイデンティティを強化するばかりである、というネタは(ずいぶん自信たっぷりにしゃべっていたが)、昨夜12時ころに洋泉社の原稿を書いている最中に思いついた新ネタである(どういう話か知りたい方は秋に出る洋泉社の本を買って下さい。これはけっこうごりごりの政論集)。
聴衆には江さんやドクター佐藤はじめ大学院の聴講生諸君がぞろぞろいらしているので、教室や宴会でしゃべったネタは使えない。結局「この二三日のあいだに思いついた未公開ネタ」をつないでゆくしかない。
まことに「綱渡り」的なパフォーマンスであるが、それでも、フレンドリーなオーディエンスであったので、気分よくしゃべることができた。
思いがけなく、中高年女性の聴衆が好意的なリアクションをしてくれる。
この世代の女性たちというのは、生活実感になじまないものは絶対信じないという点で、きわだってリアリスティックな批評者であるので、この層に受容されるということはたいへんにうれしいことである。
朝早くから岡田山に登って来て下さったみなさんに心から感謝します。どうもありがとうございました。

講演後、芦屋に移動して、合気道のお稽古。
暑い中、たくさんの人たちが来てくれる。
「浮き」をかけて、不安定な状態から自在に動くというこのところの術理をいろいろと試してみる。
大汗をかいて家に戻ってシャワーを浴びて、ただちに下川先生のところで能のお稽古。
先生と差し向かいでたっぷり2時間。
仕舞のおさらいと謡は『井筒』(よい曲である)。
来年の私の舞囃子は『融』と決まる。
「源融」というのは「光源氏」のモデルになった人である。
これまで「清経」とか「船弁慶」とかどろどろ修羅系のキャラが多かったウチダであるが、下川先生は来年は正統派ボ・ギャルソンであるところの「融」の役を振って下さった。
誤解している方が多いようだが、これこそがウチダの本来の「地」なのである。おそらくたいへん出来のよい舞台になるものと観ぜられる。

謡のバイブレーションで気分がよくなったところで家に戻って、ドクター佐藤の岩手土産の「冷麺」(美味なり)と部屋見舞いの「からすみ」(これまた美味なり)を食べながら白ワインを飲みつつ、『ブリジッド・ジョーンズの日記』を見る。
レニー・ゼルウィガー、ちょっと太めだけど、とっても可愛い。
『アメリ』の子やヒラリー・スワンクにどことなく通じる「軽いボケが入った」キャラクターである。
「女はかくあるべき」的なさまざまの定型から「微妙にずれて」しまっていて、ジェンダー的ニッチのどこにも、うまいいどころが見つからないよ・・・という感じでちょっとおろおろしている女の子というのがウチダは個人的には好きである。
本来文学は、こういう「ジェンダー・ニッチのはぐれもの」の当惑を描くことを得意としていたはずである。(『赤毛のアン』とか『若草物語』のジョーとか『ジェイン・エア』とか『嵐が丘』のキャサリンとか・・枚挙にいとまがない)
それに対して映画はこれまでむしろ積極的に「定型的な女性」を描いてきた。
定型をはずれていて、かつたいへん魅力的な女性像の造型に成功した映画作家(小津安二郎における原節子!のような)がどれほどいるだろう。
それが映画で成功しつつあるということは、「映画の文学化」というふうにまとめることができるのかも知れない。
一方、ヒュー・グラントは芸風をシフトして、「イギリス上流階級特産ダメ男」の様式的完成を見たようである。すばらしい。(そういえば、ルパート・グレイヴス@『眺めのいい部屋』はどうしたんだろう。「ダメ男」の未来を一瞬彼とダニエル・デイ・ルイスに託したこともあったんだけど・・・)
この味はアメリカの男優ではなかなか出せる人がいない。さすが大英帝国。