6月6日

2003-06-06 vendredi

平川克美くんが遊びに来る。
平川君は私のホームページではもうおなじみだが、私の小学校五年生からの親友であり、ついにご友誼をたまわること42年となった。
42年とはすごいね。
そのあいだ、いっしょに壁新聞を出し、同人誌を出し、ビジネスをし、武道の稽古をし(平川君は松濤館空手の最高段位五段を允可されている)、今でも顔をあわせるといつも「だいたい同じようなこと」を考えている。
私も平川君も(他人の話をあまり真剣に聞かないという点をのぞくと)温良で社交的な人物であるので、それぞれに「話の合う」人間は決して少なくないが、「同じことを考えている人間」というのはさすがにいない。
私と平川君はだいたいいつも同じことを考えている。
だから、私の書くことのかなりの部分は平川君から聞いた話であり、平川君が書くことのかなりの部分は私から聞いた話である。
ところが、私が「平川君から聞いた話」だとおもっていた話について確認を求めると、平川君は「そんなこと言ったかなあ」と天を仰ぐし、平川君が「私から聞いた話」だとおもっていることのうちには「言った覚えのないこと」が多数含まれている。
まあ、どっちがはじめに言ったとか、そういうことはどうでもいいよね。
前にも書いたけれど、私がコミュニケーションの可能性についてきわめて楽観的な人間であるのは、少年時代の早い時期に「言いたいことがすべて伝わる」親友というものに出会ってしまったことがおおきく関与している。
もし平川君に出会っていなければ私はもっとコミュニケーションの可能性について懐疑的な人間であったろうし、その分だけコミュニケーションに対する熱意の低い人間、コミュニケーション感度の悪い人間になっていただろう。
私がこれだけ「おしゃべり」な人間になったのは平川君に出会ったことが決定的に影響している。
だから当然にも平川君もまた「口からでまかせ」能力については私に一歩も引かないのである。

今回の来阪は、大阪駅北口の貨物駅跡地の再開発企画のためだそうである。
レストランとかブティックとか作ってもぜんぜん面白くないから、もっと文化的なものをやろうと思って、平川くんはスタンフォードかUCLAかどこかのセクションをひとつまるごと大阪に誘致する計画を練っているそうである。
大阪は外国人に対してたいへんフレンドリーな街であることは私も認めるが、平川君の構想のような「知のハブ」になりうるかどうかについてはよく分からない。
「なんやて、ハブの血? 吸うたろやないか」というようなボケをかますやつが絶対いるからね。

面白かったのは村上春樹の『1973年のピンボール』の話。
ご存じのかたもあるかと思うが、『ピンボール』の主人公「僕」とその友人は1970年代のはじめに大学を卒業したあと仕事がないので、渋谷の道玄坂に小さな翻訳会社を創設する。
『ピンボール』はそこで起こるちょっと不思議な出来事を点綴した物語なのであるが、1975年に平川くんと私が大学を出た後仕事がないので、渋谷の道玄坂に小さな翻訳会社を創業したとき、道玄坂に翻訳会社なんかうち一軒しかなかった。
どうして、村上春樹の小説世界と私たちの現実のあいだに「シンクロニシティ」が生じてしまったのか。
理由はうまく言えないが、「こういうこと」ってあると私は思う。
村上春樹が小説を執筆したのは、私たちが仕事をはじめたよりかなり後のことだけれど、別にアーバン・トランスレーションをモデルにして書いたわけではないと思う。(平川君はあちこちで「あれはアーバンがモデルなんでしょ?」と訊かれたそうだけど)
平川君と私がわいわいおしゃべりをしたときの「思い」というか「響き」のようなものが、非時間的な次元をぼんやりと浮遊していて、それを村上春樹の作家的想像力のアンテナが受信した、というふうに考える方がずっとすてきだ。

というようなことをシャンペンを呑みながらおしゃべりする。
遠方より来る友と酌み交わす時間はほんとうに豊かである。