5月26日

2003-05-26 lundi

三軸自在の三宅先生にご教示頂いた「朝昼抜きダイエット」が奏功しはじめ、体重が2.5キロ減った。
現在72.5キロ。
このペースでさらにスリム化が進むと6月中には予定の69キロに到達できそうである。いま腹回りがきつくて着られない夏のスーツが二着あるが、これが再利用可能となる。
30代以降で一番痩せていたのが89年の春で、このときは一気に7キロ減って67キロになり、ジーンズがずるずるとひきずり状態になり、ビルの間で風に吹かれるとよろけてしまった。
風に吹かれると「ああ」とかかぼそい悲鳴を上げてよろけるような蒲柳の質の人にもう一度戻りたい。
七月にウチダに会う予定の諸君、刮目してまみゆべし。諸君の知っているむちむちぷりん男ではなく、アルマーニのサマースーツをさらりとまとった細身の紳士に変身していることであろう。

文春新書の『寝ながら学べる構造主義』が9刷4万部になったと文春の嶋津さんからご連絡がある。
これは考えようによっては、大層な数である。
フランス現代思想のわかりやすい入門書を読みたがっていた人が数万人存在したということなのである。
知的不充足感を抱いていたこれだけの数の潜在的読者がいることを知って仕事をしている同業者がどれくらいいたのであろう。
自戒を込めて言うが、この読者層を掘り起こす努力を怠ってきたことについて、私たち学者はもっと反省しないといけないと私は思う。
日本の読者の知的ポテンシャルは想像されているよりずっと高い。
蒙昧主義のマスメディアと、独善的な知識人たちが、それを過少評価してきたのだ。
専門的な学術書ではないものを業界では「啓蒙書」と呼ぶ(そして、そういうものは研究業績としては一段評価が低い)。
私は「啓蒙」という言葉がよろしくないと思う。
「蒙を啓く」とは「バカにものの道理を教えてあげる」ということである。自らそう名乗るというのは、いささか読者に対して無礼ではないのか。
日本の知的書き手たちに欠けているのはインテリジェンスでもスマートネスでもなく、読者に対する適切な敬意であるのではないのだろうか。
「リーダー・フレンドリー」な学術書は散見されるけれども、「リーダー・レスペクトフリー」な学術書は少ない。
しかし、書き手が読者に敬意と愛情を抱いていないときに、読者が書物に敬意と愛情を抱いてくれるということがあるのだろうか。
敬意というのは、ほんらい相互的なものだと私は思う。
誤解している人がおおいが、私たちを見下す人間に対して私たちが(嫌悪や恐怖を抱くことはあっても)敬意を抱くということはありえない。
たとえば、レヴィナス老師の書くものはたいへん難しくて、その点においては、まるで「リーダー・フレンドリー」ではないけれども、老師が読者に要求する知的緊張は、読者の知的可能性を確信しているのなければあり得ないものだ。
老師の本を読んでいると、「読んでいて内容がまったく分からないけれど、書き手から敬意を示されていることだけは分かる」。
その逆に、「読んでも内容がさっぱり分からないけれど、書き手が読者を軽侮していることだけは分かる」テクストは世に氾濫している。
私たちはテクストに向き合うとき、その内容ではなく、そのテクストが読者に敬意を示しているかどうかを直感的に知ることができる。そして、それを基準に読むべきテクストとそうでないテクストを峻別する。
少なくとも私はそうしている。
私は読者に敬意を示すテクストしか読まない。
それは難易とは関係ない。
無内容な本でありながら読者を侮っている本もあるし、内容がすばらしく高度であるが読者に対して深い気遣いを示している本もある。
しばしば、自説の内容を読者に「理解」させることに性急な書き手が、「分かりやすく」書こうとするあまり、節度を失って、それと知らずに読者を「子ども」扱いしてしまうことがある。
でも、ほんとうに私たちの心に響くのは、「言葉の意味を理解する」ことではなく、書き手が読み手にむかって言葉を差し出すときのその「マナー」の真率さではないのだろうか。
「リーダー・レスペクトフリー」であること、それがものを書く人間すべてが深く心に刻むべきことだとウチダは思う。