5月21日

2003-05-21 mercredi

有事法制が国会を通過した。
去年はずいぶんと反対論がメディアをにぎわしたけれど、今年は民主党の対案との調整が成功して、国会議員の90%が賛成したので、反対運動もあまりぱっとは盛り上がらなかったようである。
有事法制については去年の今頃、共同通信に駄文を寄せた。法案そのものについての基本的な考えは一年経っても変わらない。お読みになっていない方もあるだろうから、この機会に再録しておく。

有事法案について

日本が外国の武装勢力に国土を蹂躙されたのは、最近が1945年の沖縄戦で、その前となるといきなり1274年と81年の元寇にまで遡る。局地的なものとしては、1863年の薩英戦争と、1864年の馬関戦争があるだけだ。
単純計算すると、わが国が「有事」を経験したのは「有史以来」四回。平均のインターバルは182年。二つの「象徴的な」攘夷の戦闘を除くと、平均インターバルは364年となる。歴史にアベレージを持ち込むことには意味がないが、あえてその意味のないアベレージをとると、「次に日本が外国武装勢力に本格的に侵略される」のは2309年頃である。
モンゴル帝国は当時世界最強の武力を誇り、ロシア諸公を打ち破り、クリミア半島まで略奪した。薩英戦争の相手のイギリスは阿片戦争で清を屈服させ、下関で長州藩を打ち破ったフランス陸戦隊はインドシナを植民地化した勢いを駆っていた。英仏は19世紀を代表する帝国主義国家である。
とりあえず、以上が、私たちの持っている「外国の武装勢力による国土侵犯の歴史的経験」のデータである。
それを踏まえて、次の質問に答えていただきたい。

なぜ、2002年の今、「外国の武装勢力による国土侵犯」への備えが喫緊の政治的課題として浮上してくるのか、その世界史的・国際関係論的必然性について400字以内で述べなさい。

もちろん私はこのような難問には答えられない。そもそも一体、誰が答えることができるだろう。
もしいま国会で論じられている「有事」法案なるものが、幕末に高杉晋作や坂本龍馬なりが起案したものであるというのなら、私はその先見性を評価してもよい。しかし、いまは幕末の、帝国主義列強による植民地切り取りが平然と行われていた時代と隔たること遠い。

少し頭をクールダウンして考えてみよう。一体、誰が、何のために、どのような国際関係論的文脈によって、日本を武装侵略するというのであろう。
例えば、「アメリカ軍による日本侵略」は「有事」には算入されているのだろうか。その場合の対応について、自衛隊内部でこれまで真剣な戦略的なシミュレーションが行われたことがあっただろうか。
たぶんないと思う。
だって、そんなシミュレーションは「やろうとしても不可能」だからだ。シミュレーションをする人たち自身がアメリカの世界軍事戦略の「コマ」なんだから。
同じように、中国による侵略も、ロシアによる侵略も、日本政府の方々も自衛隊の方々も、誰も本気では考えていないはずだ。だって、もし中国やロシアが日本に侵略してくるということがあるとしたら(ないと思うが)、それは「アメリカと裏で話がついている」という場合以外にありえないからである。
つまり「有事」と言いつつ、この「有事」には、日本がほんとうに危機的な状況について、その可能性をあらかじめ排除しているのである。
というのは、日本がほんとうに危機的な状況とは、どこかの国が日本を侵略することについてアメリカがOKを与えた場合と、アメリカ自身が日本を侵略する場合の二つしかないからである。
しかるに、この「有事」法案は、アメリカ軍が日本国内に駐留して、日本の安全保障を完全にバックアップしてくれることと、国連主導の国際社会による制裁機能が効果的に機能していることを不可疑の前提に想定している。
ふつう私たちはそのような事況を「有事」とは呼ばない。
「無事」と呼ぶのである。

結論を述べる。
この有事法案に対して、私がまじめに取り合う気になれないのは、この法案を策定した人間も、反対している人間も、全員が、「ほんとうに日本の国家主権が危機的な状況」(それはとりあえず「アメリカを敵にして戦う」という状況以外にない)は「絶対来ない」ということを気楽に信じているからである。
だから、私はこれを「有事」法案ではなく、「無事」法案と呼びたいと思っている。


という文章を一年前に書いた。イラク戦争の後の今読み返してみても、そのまま使い回しできそうである。
「有事」法制に反対する人々は、これを契機に日本が「軍国主義化」するのではないか、というふうに論じているが、これはあまり説得力がないように思える。
繰り返し言うとおり、この「有事」法制なるものは、「アメリカの極東における政治的・軍事的プレザンスと米軍の日本国内駐留」を前提にしている。そして、自衛隊の軍備拡充と「有事」法制の整備を日本に勧めているのは、当のアメリカ政府なのである。
果たして、アメリカ政府は日本がかつての大日本帝国のような軍事大国になることを求めているであろうか?
私は求めていないと思う。
アメリカが求めているのは、日本がこれから先も、政治的・軍事的に頤使できるアメリカの極東における「弱い味方」であり続けることである。
アメリカにとってもっとも好都合な「弱い味方」の政体は北朝鮮や旧イラクのような軍事独裁政権ではない。
なぜなら、イランやイラクやアフガニスタンの先例が示すとおり、「親米的な軍事独裁政権」は「反米的な軍事独裁政権」にいつ方針転換するか、まるで予測不能だからだ。
だから、アメリカが「弱い味方」である日本に望む「セカンドベスト」の選択は「国論がなかなか統一しないが、合意に至る民主的手続きは確保されており、そこそこの軍事力はあるが、職業軍人が政治権力に近づけないように構成された政体」である。
少なくとも私がアメリカ国民であれば、そう望む。
だから、アメリカが日本の軍国主義化を「望んでいる」ということはありえないと私は思う。
今般の「有事」法制は、小泉首相が自賛するように、「ペリー来航以来もっとも日米関係が良好な時期」に起案され、可決された。
その意味は「私たちは永遠にあなたの『弱い味方』であり続けます」という意思表示であると私は思っている。
この意思表示は、現在の日本政府がなしうるものの中ではもっとも現実的なオプションの一つである。そのことを私は認める。
それは、この「有事」法制に対しては、「情け無い」と自嘲する以外には、批判の方途が塞がれている、ということでもある(情け無いけど)。
というのは、この事大主義的「有事」法制に反対するロジックとして真実有効なものがあるとすれば、それは一つしかないからだ。
それは「ほんものの有事法制を起案すること」である。

日米安保条約を廃棄し、アメリカと互角で戦争ができるだけの核軍事力を持つ日本の将来構想を立ち上げるということである。
すくなくとも半世紀ほどは我が国のあらゆるリソースを「軍事」に集中することについて国論を統一するということである。
つまり「Lサイズの北朝鮮になる」という選択肢である。
だが、この構想に共感する国民は今の日本にほとんどいないだろう。

国際関係をものすごく単純化すると、日本には四つのオプションがある。

それはアメリカの「強い味方」になる/「弱い味方」になる/「弱い敵」になる/「強い敵」になる、の四つである。

日本は今第二のオプションを取っている。
ここから路線変更する場合、さしあたり現実性があるのは、隣接する二つだけである(今見たとおり「強い敵」になるというオプションは現実性が稀薄だからである)。
つまり「強い味方」になるか、「弱い敵」になるかの二つに一つである。
いわゆる「右」の方々は「強い味方」になることを望んでおり、「左」の方々は「弱い敵」になることをめざしている。
そして、その二つの張力が折り合った点が今の私たちのポジション、すなわち「弱い味方」の立ち位置なのである。
この立ち位置を日本は60年間かけて多少左右にぶれながらも一貫してきた。
私はこのポジションは国内外のすべてのファクターの「複合的効果」であると考えている。ことの良し悪しではなく、すべてのファクターを勘案したら、「結局、この場所しかないよな」という苦渋の結論なのである。
今回の「有事」法制を日本の保守政治家と官僚たちは「強」に向けて、一つだけ目盛りが動いたと評価しているのだろう。
だが、彼らのそういう動きそのものが、すべてアメリカの世界戦略の「コマ」通りであるということに彼らは自覚的ではない。
日本は「有事」法制によって(アメリカを仮想敵国とした「有事」を想定する政治的想像力を構造的に欠いているという)政策構想力の脆弱さを曝した。
それゆえ、「有事」法制の制定は「日本という国の救い難い弱さ」をアメリカに知らしめたという意味で、アメリカから見た場合、「弱」へ一つだけ目盛りが動いたとみなしてよい。
言い換えれば、主観的には「一目盛り分」だけ「強」に近づき、客観的には「一目盛り分」だけ「弱」に押し戻された。だから、プラマイトータルでは「もとの場所から一歩も動いていない」というのがことの総括として順当なところではないかと私は思っている。
あるいは、もしかすると、日本は「左右にじたばたすることによって、結果的に何もしないで済ませる」という政治戦略をもって21世紀の国際社会を生き延びることにしたのかも知れない。
考えようによっては、けっこう「高度」な政治的パフォーマンスだなあ。そういうの日本人て得意そうだし。