5月18日

2003-05-18 dimanche

「国際気の錬磨」に行って、すっかり心身がリフレッシュされて帰ってくる。
多田先生の「結界」の中で、多田塾門下の道友諸氏と過ごす時間は、時間の密度や流れ方がふだんと違う。
ここにいると、自分が「位置づけられている」ということが実感として分かる。
師がいて、先輩たちがいて、昔からの稽古仲間がいて、元気な後輩たちがいて、愉快な弟子たちがいて、それらのネットワークの一つの結節点としての私のポジションがちゃんとそこにはある。「オレがオレが」と自己主張しなくても、私がそこにいて、「繋ぎ」役をすることが求められている。
そのような「時空を貫くネットワークの中で位置づけられている」という感じがどれほど人を落ち着いた気持ちにしてくれるか。うまく言えない。
でも、「そういう場」は人間が愉快に生きて行くためには絶対に必要なものだと思う。
『私の身体は頭がいい』の序文で甲野先生が、「多田塾門人」という位置どりは私の邪悪さを自制するための一種の「檻」としても機能しているという洞見を語っておられた。(何でもお見通しである)
この「檻」は(私が「結界」という言葉で言っているのはこの「檻」のことだ)すごく「気持ちのよい檻」なのである。
「位置づけられる」ということは言葉を換えて言えば「縛られる」ということだ。
多田先生の門人であるということは、私にとって「孫悟空の金環」に等しい機能を果たしている。
孫悟空が三蔵法師に師従するのは、その金環が彼を制約することによって彼を「正しい場所にマップする」からである。

今回の「気の錬磨」合宿で、多田先生は「顕幽一如」という言葉の解釈にかなりの時間を割かれた。
私は長い間、この言葉の意味が分からなかった。
まあ、分からないよね。
若かったんだから。
でも、最近、おぼろげに分かってきた。
父が死んだあとに、「死ぬ」ということがどういうことかちょっと分かった気になった。

死んだ父はもう「眼に見えるもの」として「ここ」にはいない。
でも、「眼に見えないもの」として歴然と「ここ」にいる私の生き方に影響を与え、私の生き方を律している。
顕幽の境は「ある」けれど「ない」。「ない」けれど「ある」。
そういう仕方で、つまり「存在するとは別の仕方で」。

もしかして、レヴィナス老師の言われた「存在するとは別の仕方で」というのは「このこと」だったのかしら・・・
武道の稽古がひたすら焦点化するのは、この「存在するとは別の仕方で」という顕幽の境目における「ふるまい方」の「術」だったではあるまいか・・・

武道は「学」でも「論」でもなく、「術」である。
「学」や「論」はもっぱら知性の仕事である。
だが「術」は身体が参与しないと始まらない。
私は25歳のときに多田先生に入門し、30歳のときにレヴィナス老師に出会った。
どうしてこのお二人の達人に師事することに決めたのか、そのころは意味が分からなかった。いったい、二人の師匠たちのどこに共通点があるのか分からなかった。
それがようやく分かってきた。
私は「存在するとは別の仕方で」ふるまう「術」を学びたくて武道を稽古し、哲学書を読んできたのである。
だから、昼間はレヴィナス老師の翻訳をして、夕方になると合気道の稽古に日参していた30代の10年間、なんと私は(それと知らずに)たいへんに効率的な修行の日々を送っていたわけである。
うーむ、そうだったのか。知らなかった。

いつもスーパークールな新曜社の渦岡さんからちょっと弾んだ声で電話があって、
『私の身体は頭がいい』が重版になるというお知らせが届いた。初版3000部とはいえ5月15日初版発行で、19日に重版決定というのはけっこうなハイペースである。
全編のほとんどが多田先生と甲野先生からうかがった話を「請け売り」しただけという「虎の威を借りる狐」本である。
だが、そうは言っても「威を借りる」ことのできるほどの「虎」とすべての「狐」が出会えるわけではない。
「虎に出会える狐になるためのハウツー本」として読んで頂けているのであればうれしい。
これはけっこう大切なことだと思うよ。