連日遅くまで起きているので、ネムイ。
一昨日は、阿波徳島のマスダくんと電話で遅くまで話し込んでしまった。
私的な問題なのでここでは触れることが出来ないので、そこから派生する「一般論」をひとつだけ。
私は他人を匿名で批判するという習慣を持たない。
だからといって、匿名で他人を批判することを「よろしくない」と思っているわけでもない。
私はしない、というだけのことである。
だから、匿名で他人を批判する人間は、「私とは言語の使い方の違うひと」である。
「言語の使い方の違うひと」と言語をもってコミュニケーションしようとするのは崇高な企てではあるが、たいへんに困難なことであり、少なくとも私の知的能力を超えている。
私は「できないことは、(できるようになると、すごく愉しそうだ、という予測が立たない限り)やらない」主義である。
世の中には自分とは言語の使い方の違うひととも広くコミュニケーションしようとする方がおられる。
特に若い方には、この理想主義的傾向が散見される。
もちろんそのような態度はたいへん「よいこと」である。
しかし「よいこと」だけれど、「とても疲れる」ことでもある。
あまり「疲れる」と日常生活に支障を来すこともあるので、「よいこと」も「ほどほど」がよろしいのではないかと私は愚考するのである。
言葉の通じない人と言葉を通わせることがどうしても必要な場面、生き延びるためにどうしても必要という場面に私たちは必ずいずれは出会う。
そのときのためにコミュニケーションのリソースは温存しておくといいよ、と私は若い方々に申し上げているのである。
コミュニケーションは使って減るもんじゃないだろ、と思っている方がおられるやもしれぬが、それは短見というものである。
コミュニケーションのリソースは相手を間違えて使うと致命的に「使い減り」がするものなである。(J・D・サリンジャーの孤独を見ると分かるとおり)
インターネットメールというのは、その人とコミュニケーションすることが「生産的」であるか「純粋な消耗」であるかを瞬時に判断することを私たちに求めるたいへんにタイトな場である。
でも、そういうタイトな経験を通じてこそ人間性を選別する能力はとぎすまされると私は思っている。
本ホームページの掲示板では、もちろん匿名による批判を書き込むことは自由である。私はどのような書き込みも削除しない方針である。
ただし、できうることならば心ある読者諸氏は、礼を失した書き込みに対しては「ジェントルな沈黙」をもって応じて頂きたいと思う。
掲示板に「誰からも返事がこない罵詈雑言」が「沈黙の檻」にかこまれて、ひとりぽつねんと残されているありさまから私たちは「下品さ」や「愚劣さ」がどういうものであるかをゆっくり鑑賞することができる。
これはある意味でとても貴重な知的情報のひとつであると私は信じている。
私が「ウチダはバカだ」という書き込みを削除しないのは、寛仁大度のゆえではない。(そんなわけがないじゃないですか)
掲示板を使って「バカの見本」をコレクションしているからである。(あ、こんなこと書いたから、またコレクションが増えちゃうかな)
(2003-05-15 00:00)