5月13日

2003-05-13 mardi

5月11日12日と山形鶴岡の内田家の菩提寺である宗傳寺を母と兄とで父の一周忌に訪れる。
ちょうど2年前の同じ日に宗傳寺を父もまじえた四人で訪れ、「内田家累代之墓」に詣でた。そして、奇しくも去年の同じ5月12日父が死んだ。
だから今年の5月12日が一周忌納骨の日になる。
前回のお墓参りのときは、お寺には寄らずに、お墓だけさらっと掃除して帰ったけれど、今回は本堂で供養の法事をしてもらった。
法事の前に住職さんと庫裏でお話をする。
これまで会ったこともない見知らぬ鶴岡のお坊さんに内田家の先祖の話とか亡き伯父たちの逸事とかを聞くのは不思議な気分のものである。
お寺に隣接する大宝寺町が幕末に酒井家に仕えた新徴隊士たちの長屋のあった地所である。その角の一軒を指して、住職さんが「ここが内田さんの旧宅のあったところです」と教えてくれた。
明治初年に四代前の高祖父が暮らし始め、伯父たちが育った町並みを母と兄と三人でしばらく歩く。
前にも書いたけれど、こういうかたちで「血統」の中に自分を位置づけるということは、ある年齢に達するとたいせつなことのように思われてくる。
うまく言えないけれど、こういうかたちの「history - story」は人間が「死ぬ準備」をするために必要な「幻想」のような気がする。
ただ「気がする」というだけで、だからみんなも祖霊を正しく供養しろとかそういう遂行的教訓を引き出すつもりはない。
でも何か知らないけれど、遠い祖先の暮らした町並みを歩くと、気持ちが深いところで鎮まってくるのを感じる。
鶴岡の町は今年も静かで、人々は穏やかで、宿のご飯は美味しく、日本海の景色は美しく、母と兄と三人の短い旅行はとても楽しかった。
もともと仲の良い家族だったけれど、父が死んだあと、死んだ父が私たちを結びつけてくれたかのように、遺された三人は前よりもさらに仲良くなった。
死者は生者たちの生き方に深くかかわってくる。
その意味で、死者は死んでいるけれど、死ぬことを通じて生きているのだと思う。

本日の大学院は「一夫一婦制」のお話。
ぼちぼち賞味期限の切れかけた制度ではあるけれども、それに代わるものを私たちはまだみつけていない。
というのは、一夫一婦制を基礎づけている「偕老同穴」の「ロマンチック・ラブ」の幻想は、「それに代わる」と称する制度にも伏流しているからだ。
だってそうでしょ?
籍を入れないカップルであれ、ゲイ・カップルであれ、フォスター・ファミリーであれ、複婚制であれ、いずれも「終生変わらぬ愛」を依然として(実現の困難な)理想としていることに変わりはないのだから。
どういうメンバーが愛の構成単位であるべきかということについては考え方はばらばらでも、その関係ができうるかぎり永続的で確かなものであって欲しいという思いに変わりはない。
人間と人間のあいだの信頼や愛情の関係はできうる限り短期的で不安定な方がよいという考え方が支配的なイデオロギーにならない限り、「ロマンティック・ラブ」の幻想はこれからも社会的紐帯としての有用性を失わないだろうと私は思っている。
一夫一婦制がうまく機能しなくなっていることは事実だけれど、それはむしろ「ロマンティック・ラブ」という幻想が生き延びるために必要な「対価」の支払いを人々が惜しみながら、その「成果」だけを求めているからではないのだろうか。
私が「対価」というのは、自分のかたわらにいる人に対する敬意と配慮のことだ。
パートナーに対する敬意と配慮という「対価」を最小化しつつ、パートナーから引き出しうる快楽という「成果」だけを最大化しようとするのは、どだい無理な相談である。
必要なのは制度をいじることでも制度を死守することでもなく、どんな制度においても、きちんと「愛の対価」を支払うことだと私は思う。
懐手をしていても「愛」が手に入るような制度はどこにも存在しない。
逆に言えば、どんな制度のもとでも、手間を惜しまなければ、たいていのことは何とかなるものだ。
ほんとだよ。

ゼミのあと小走りに北浜まで出かける。
今夜は林先生主催の有朋塾で甲野先生の講習会がある。
7時の開会時間に駆け込む。
20人ほどの参会者だけれど、甲野先生との共著を出したばかりの多田容子さんや卓球のオリンピック選手や空手の高段者や京大の赤星君や関西棋院のプロ棋士たちなどコアなメンバーである。
今日の特別ゲストはWBC世界チャンピオンの徳山昌守さん。(これは三軸自在の三宅先生のコーディネイト。三宅先生は今日の午後甲野先生を正道会館にご案内して、K-1の選手諸君との出会いをセッティングしたのである。私も誘われたんだけど、授業があるからねー。うう、見たかったぜ)
甲野先生もボクシングの世界チャンプを前にして突きや体捌きの原理を教えようというのであるから一段と気合いが入っている。
徳山さんは「捻り」を入れてはいけないという甲野先生の術理とボクシングの身体運用の違いが気になるようで、何度も立ち会うのだけれど、甲野先生の起こりのない不思議な突きにちょっと当惑気味である。
でも、率直に甲野先生に疑問をぶつける徳山さんの態度はとてもジェントルで気分がよかった。さすがいま絶頂期の世界チャンプ。心も体も柔らかい。立ち姿も身のこなしも出処進退も実に端正である。
まったくエリアの違う身体技法の二人の天才の厳しいやりとりを目の前1メートルで拝見するというたいへん幸福な経験をした。
眼福眼福。
私はボクシングにはあまり興味のない人であるが、これから徳山さんを応援することに決めた。みんなも応援しようね。好青年だよ。

講習会のあと林先生と二人の青年棋士と玄米正食(美味!)のお店でご会食。
甲野先生とは7月に池袋のリブロで「対談・サイン会」というものをすることになっている。
その日程の打ち合わせと、晶文社から出す共著本の「ヴァーチャル対談」の進め方についてご相談する。これは例の『邪悪なものの鎮め方』(仮題ね)の続きである。なかなか出ないのでいらついている人もおられるようですが、そのうち出ますから、もうちょい待っててね。
甲野先生がお忙しくてなかなか対談の時間が取れないので、メールでやりとりしながら、それを対談形式にまとめることにする。
「霊の話」だけではなく、教育問題や宗教問題などいろいろなテーマを同時並行的に展開しましょうということで話が決まる。
楽しみなお仕事である。