5月3日

2003-05-03 samedi

憲法記念日なので、政治について考える。
私のホームページでホットなニューヨーク情報を伝えてくれている川仁さんの昨日の日記にネオコンの解説があって、とても興味深く読んだ。
読んでいる人も多いと思うけれど、話の都合があるので、そのまま再録。

「新保守主義 neoconservatism」についての入門的な読書をする。「新保守主義」というのは、ブッシュ政権で影響力を持っているといわれるイデオロギー。(ただ、一枚岩的な思想ではないらしい。)Vernon Van Dyke という人の書いた Ideology and Political Choice という本の Neoconservatism の章とか読んでみる。
うーむ、おもしろいな、これ。

アーヴィン・クリストルやノーマン・ボドレツといった新保守主義の論客たちが言っていることの説明を読んでみたんだけど、いろいろ考えさせられる。
この人たちの左翼批判は、なかなか鋭い部分があると私には感じられた。そもそも、この人たちは元左翼であり、60代以降に新保守主義に転向したんですね。あるとき自分の誤りに気がついて転向した人というのは、その反動から、過去の自分を思い出させるような考え方を徹底的に批判する傾向があるような気がするけど、この人たちの左翼批判もそんな感じなのかもしれない。でも、そういう人にかぎって、「過去の自分」に向かってシャドー・ボクシングしてしまう傾向もあるのかもしれない。ヴァン・ダイクが指摘しているように、「そんなリベラル、実際にどこにいるの?」と思わせるような、架空の敵を描いてしまうという。
ヴァン・ダイクによると、新保守主義が批判するものの一つは、「平等主義 egalitarianism」。「平等主義」と言っても、何が平等なのかといういう点で、その意味はまったく変わってしまう。例えば、「市民は法によって平等な保護を受ける」というのは、新保守主義者もとうぜん賛成なわけです。新保守主義者が反対なのは、「資産の再分配によって貧富の差をなくす」とか、「フェミニズムによってジェンダーの差異をなくす」とか、そういう強制的な「均質化」のことらしい。「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか。必要なのは、みんなが同じになることじゃなくて、社会が全体として豊かになることだ。そうすれば、弱者にとってだって良い社会になるんだから」という主張らしい。私がこれだけ書くと穴だらけの議論に聞こえるだろうけど、とにかく、そういう「平等主義批判」というのが新保守主義にはあるらしい。
しかし、新保守主義は、いわゆる保守主義と違い、福祉国家を求める。「弱者を助けないような社会は、良い社会じゃない」と考えるのだ。クリストルは、Two Cheers for Capitalism という本で、資本主義は他のシステムにくらべたら一番良いシステムなんだけど、絶対的な評価として、満点はあげられないと書いているそうだ。(英語では Three Cheers が満点であり、資本主義には Two Cheers を与えるということ。)「個人が自律的で自由に考え行動できる資本主義は素晴らしいんだけど、そうするとどうしても自己中心的なことをする人たちが出てきてしまい、それが社会全体にとって良くない状況を作り出す。それが欠点だ」と考える。そこで、この資本主義の問題を是正するためには、弱者を助ける福祉のシステムだけではなく、「他人のことを思いやる道徳観」が不可欠になると考える。そして、クリストルによると、この道徳観は、近代的な合理主義では獲得できず、求められるのは一種の「ポストモダン」な価値観なのだということになる。ここで言う「ポストモダン」とは、価値の相対主義ではなく、宗教のように合理性を超えた絶対的な道徳心のことである。

私みたいな無知がこうやってまとめても、ウィルダフスキーやクリストルやポドレツが言いたいことさえ伝わらないと思うけど、何も知らなかった私には、この人たちが言っていることには興味深い指摘もあると思った。おもしろいので、政治思想についてもっと勉強してみたいと思った。しかし、上のようなクリストルの議論を読んで問題だと思うのは、やはり「超越的な道徳観(宗教)」の部分ではないか。その道徳観がどういう構造を持ったものなのかにもよると思うけど、クリストルが言うような新保守主義の道徳観は、「明瞭」すぎて恐ろしいと思う。クリストルやポドレツは、新保守主義はイデオロギーではないと言っているらしいが、そんな「道徳」を社会に押しつけたら、社会が「均質化」してしまうだろう。「経済のではなく、道徳の貧困と戦い、社会を道徳的に均質化することによって統合する」というのが、新保守主義の目指すところなのだろう。その裏には、必ず他者への抑圧があると思う。それが良い社会なのだろうか。

「新保守主義」というイデオロギーについては、それがジョージ・ブッシュの側近たちのあいだで支配的な政治思想であるということと、30年代のアメリカ左翼思想の「落とし子」である、ということしか私は知らなかったが、川仁さんの解説を読んで、知らないことをいろいろ教えてもらった。
川仁さんの指摘ではネオコンの特性は

(1)元左翼「転向」組なので、リベラル派に対して近親憎悪的怨念を抱いている
(2)平等主義を嫌い、自由競争による社会の多様化をめざしている
(3)競争で脱落してゆく弱者に対する配慮は「宗教的道徳性」によって担保される

の三点に絞られる。
さすが「ネオ」というだけのことはある。
「多様性」と「倫理性」という「ポストモダン期において外すことのできない概念」がきっちりはめ込まれているからだ。
私は業界内的には「ネオソフト・ナショナリスト」に分類されているが、そうやって眺めてみると、たしかに私もまた「元左翼転向組」であり、「社会の多様化」を求めており、ある種の「倫理性」によって人間の行動を律すべきであることを説いている点において、ネオコンの主張とずいぶん「かぶっている」。
でも、ずいぶん温度差があるような気もする。
「かぶっているけど、違う」ということはある。
ここで、ちょっと言語学の用語を使ってご説明しよう。

語の「意味」には「語義」(signification) と「価値」(valeur) の二つの種類がある。
これはかのフェルディナン・ド・ソシュール先生が『一般言語学講義』で諄々と説かれた、大変重要な考想である。
「語義」というのは「語の辞書的意味」である。「価値」というのは「意味の厚みや幅」のことである。
例えば、フランス語では「羊」を指すのに mouton という語をもちいる。英語には「羊」を指す語は二つあり、「生きている羊」には sheep、「食肉としての羊」には muttonを 当てる。私たちは平気で「英語のシープはフランス語ではムートンていうのだよ」というふうに同定して怪しまないが、sheep は「食肉加工された羊肉」という意味を含まないので、この二語は「語義はかぶっている」が、「それぞれの語の意味の厚みや奥行き(つまり「価値」)は違う」のである。
ソシュールがその言語学で「意味の差異」というときに主に問題にしていたのは「語義がかぶっている」ところではなく、語のあいだの意味の厚みの「ずれ」の方である。
というわけで、とりわけ「多様性」とか「倫理性」とか「他者性」というような、当今のイデオロギー的論戦における「決めのキーワード」を扱うときには、それぞれの言葉の使い手による意味の「ずれ」を意識しておくことがたいせつだろうと私は思っている。
(「他者といったら、まあ、他の人のことだわな」と書いたのはどこのどいつだ、というつっこみが入りそうであるが、ウチダのいうことは時と場合でころころ変わるのである)

私はネオコンの主張を根幹的なところでは承認するけれど、多様性と倫理性という術語を使うときの「語の価値」がずいぶん違うような気がする。
多様性の確保(つまりふるまい方の異なるさまざまな社会集団の混在)が社会システムの健全な機能のために必須であるという点について私はまったく異論はないが、それが自由競争によって確保されるという考え方に対して私は懐疑的だからである。
自由競争によってたしかに社会集団間には「壁」らしきものができる。
たとえば「成功者」と「失敗者」のあいだには、賃金、威信、権力、情報、資産、子女の学歴、趣味、教養などにおいて歴然とした「壁」ができる。
しかし、この「壁」は均質的な社会集団を「輪切り」にしている「垂直方向の壁」であって、社会を多様化する壁ではない。
社会集団間の「壁」には水平方向の壁と垂直方向の壁の二種類がある。
学生時代の友だちに久しぶりに会ってみたらヤングエグゼクティヴになってリムジンを乗り回しており、次にあったら、ホームレスになっていて100円玉をせびられ、また久しぶりに会ったら新興宗教の教祖になっていて、次にあったらパンパスでガウチョになっていて、次にあったらポリネシアで漁師をしていた・・・・というような種類の社会的立場の移動は社会に多様性をもたらすだろう。
しかし、ネオコンのみなさんが考えている多様性というのは、そういうものではなくて、「賃金、威信、権力、情報」という基本的な度量衡は共有した上での垂直的差別化のことであるように私には思われる。
私はそのような差別化はほんとうの意味での多様性を基礎づけないと考えている。
だって、栄枯盛衰盛者必滅は世の習いだからだ。
「年収の壁」はその語の定義からして、毎年更新される。
貨幣も威信も権力もただひたすら交換されるだけであり、そのようなものを価値として認知する人々のあいだに多様性が安定的に確保されるということは起こらない。
垂直方向の「壁」は社会を安定的な下位集団に細分化するためには、ほとんど役に立たない。

しかし、私たちの社会を安定的に秩序づけるのは、社会が価値観を異にする複数の下位集団に分凝していることである。
社会的リソースが限定的なものであり、社会成員が同一の度量衡で価値を認定していれば、必ず、暴力的な競合が発生する。
それを回避するために生物の世界には「エコロジカル・ニッチ」(生態学的地位)というものがあって、それぞれの種族が捕食や営巣のしかたを「ずらして」共生している。
もし、サバンナに「ライオンだけしかない」状況を考えれば、その生態系がどれほどすみやかに壊滅するかは誰にでも想像できるだろう。
しかし、全員が同じような欲望をもって生きている社会(グローバリズムというのは、それを理想とする思考のことである)というのは、全個体が同一の生態学的地位を占め、同一のものを捕食し、同一の場所に営巣し、同一のパターンで生殖するような単彩的な社会のことである。
それがどれほど危険な社会であるかは誰にでも分かる。
「全員が入れ替え可能であるような社会」、これは人類の生存戦略上きわめて危険な社会である。
だから社会は多様な下位集団に細分割しておかなければならない。
「壁」が機能しているとき、つまり「ニッチの壁」が乗り越え不能であるとき、社会は不活性的ではあるが、安定している。
しかし、それはある意味で「死んだ」社会である。
生物は変化を不可欠の栄養として生きている。
だから、エコロジカルな安定は構造的に構造的に破綻する。
社会秩序が乱れるのは、「壁」が崩れて、社会階層間の移動が激化するときである。(戦国時代の「下克上」とか、明治維新期とか)
よしあしは別として、これがことの原則である。
私たちはこの原則を踏まえた上で、「適度に活性的で、適度に安全な社会システム」を構想しなければならない。私はそういうふうに考えている。
「社会階層間の移動の全面的な自由」「社会的ボーダーの全廃」は、「社会階層間の移動の全面的禁止」や「社会的ボーダーの絶対的固定化」と同じように生物の本性に反している。

川仁さんの要約によると、「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるよう
だが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
それは単に希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだって、いつかはトップに・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・」というようなことを全員が幻視する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
勘違いしている人が多いが、人間の価値は、そのひとにどれほどの能力があるかで査定されているのではない。
その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。
現に、「リストラ」というのは「替えの効く社員」を切り捨て、「替えの効かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく棄てられる。
人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。
そういうものなのである。
だから、人間的な敬意というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。
だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。
そのような社会で、個の多様性やひとりひとりの「かけがえのなさ」への敬意がどうやって根づくだろうか。

もう一度最初の論件に戻るけれど、ネオコンの人々の考える「多様性」というのは、要するに、同一の価値観のもとでトップからボトムまで、ずらりと社会成員が「序列化」されているということである。
同じ尺度で定量的に査定されたものたちのあいだにあるのは「序列」と「階層」と「差別」と「羨望」だけであり、それは「多様性」と無縁のものだと私は思う。

もう一点、川仁さんも危惧を語っていたけれど、「宗教的道徳性」に担保された「他者への敬意」という考想の怪しさについても日本の話にからめてひとこと申し述べたい。
小学校六年生の通知表に「国」や「日本」を愛する気持ちがあるかどうかを「査定」する評価項目を取り入れた小学校がある。
02年度から新学習指導要領が始まり、「国を愛する心情」の育成が社会科の学年目標に掲げられたことに対応してのことである。
評価項目の文言は「我が国の歴史や伝統やを大切にし、国を愛する心情をもつとともに、平和を願う世界の中の日本人としての自覚をもとうとする」。この評価項目についてABCの三段階評価を教員が行うのである。
私は人も知る「愛国者」であるが、この指導要領には開いた口が塞がらなかった。
「愛国心を教科目標に掲げて、教師が生徒の愛国度について査定を行う」とは、いったい文部官僚は何を考えているのか。
「愛国心」こそ、あらゆる人間的活動のうちで、もっとも定量的な査定になじまぬものだ。
だいたい「愛国心」とは何のことなのか。
私の定義によるならば、「愛国心」とは「国益の最大化を優先的に配慮する心的活動」である。それ以外にもっと「正しい」定義があるというなら言っていただきたい。
「国益」とは、端的にこの国民国家の全構成員の生命身体財産の効果的な保護と、人間的自由の保全のことである。
ここまではどなたも文句があるまい。
しかし、根本的な問題は、にもかかわらず、「国益」とは何かについての国民的合意というのは存在しない、ということである。
小沢一郎が「国益」と観じているところのものと、私が「国益」と考えているものとは、まるで違う。
小沢は「普通の国」になり、常備軍を持ち、核武装し、アメリカの軍事的なイーブンパートナーとなることが日本の市民たちにそれ以外のオプションよりも多くの利益をもたらすだろうと予測している。
私は逆に日本は「他を以ては代え難いユニークな国」を志向すべきであり、その代替不可能性によって国際社会における安全なニッチを見出すべきだと考えている。
しかし、だからといって、私は自分の国益予測が正しくて、小沢一郎のそれが間違っているとは思わない。
こういうのは個人によって違って当たり前なのである。
国益を守ろうという「総論」とについては全員一致しても、では具体的にどういう政治的オプションを採択するのが、国益を「最大化」するのかという「各論」に入ったとたんに、みんな考えが違ってしまう。
しかし、それが当然なのだ。
それぞれの国益についての考え方をする人々が多数派を獲得するために議論を展開するのが民主主義だと私は思っている。
それでは危機に際会したときに、話がさっぱり先に進まないからダメだ、国論はすみやかに統一されるべきであるというなら、誰かに「国益」を人格的に代表する独裁者になって頂くしかない。それなら挙国一致で国論はみごとに統一されるだろう。
だが、「賢い独裁者」は「愚昧な独裁者」が彼に続いて出現することを決して阻止しえないという事実を私たちは歴史を通じてうんざりするほど熟知しているはずである。
「国益観の多様性の保証」「言論による多数派形成の自由の保証」こそが民主主義の原点である。

その上で「愛国心」とは何かを考えるならば、それが「定量不可能」なものである、ということは誰にでも分かるはずである。
だって、自分がどういうふうにふるまうことが国益を最大化するのかは、小学校六年生にしたって、生徒ひとりひとり考えが違うはずだからである。
私は私なりに熱烈に国を愛している。
この国を何とかもっと住み易い国にしたいものだと毎日ない知恵を絞っている。それは子どものころから変わらない。
その私に向かってもし六年生のクラス担任教師が、「祝日に家の玄関に国旗を掲揚しない」とか「君が代を大きな声で歌わない」とか「伝統文化を軽視し、フランス人の本などを耽読している」というような理由で、「日本人としての自覚が足りない」とC査定を下したなら、私は口惜しくて涙を流すであろう。
逆にもし小学生が右翼の街宣者で校庭に乗り付け、戦闘服で国旗に敬礼して、「海ゆかば」を絶唱し、唱和しない同級生を殴り倒したら、教師たちは彼の「日本人としての自覚」の評点をAにするのだろうか?(それを拒むどのような理由を彼らは思いつけるだろう?)
愚かな話だ。
「日本人としての自覚」というようなものに外形的基準は存在しない。するはずがない。
それは一人一人の日本人のマインドセットであり、完全に個人の自由に属する。
それは算数の計算力とか歴史知識とか漢字のリテラシーというようなものとは、まったく別の水準の、誰も査定できないし、誰も査定すべきでない心的活動である。
「日本人としての自覚」や「愛国心」は、ただ、その言葉の解釈について立場を異にする人々との、対話的論争的コミュニケーションを通じて一人でも多くの同意者を獲得してゆこうとする知的努力によってしか検証しえない。私はそう思っている。
もしこのような査定を考え出した役人たちが、「日本人としての自覚」や「愛国心」は一義的なものであり、教科的に査定できると考えているとしたら、彼らこそもっとも深く我が国の国益を害し、伝統と文化を汚し、愛国心の健全な育成を阻害する人々であるだろう。
「愛国心」がマニュアルにもとづいて定量的に査定できると思っているような(国民国家の幻想性をなめきった)人間には国家や民族や宗教について語っていただきたくないとウチダは思う。
という話がどうネオコンの「宗教性」と「倫理性」の話につながるのかは、(もう大筋はお分かりになったでしょうが)長い話になるので、また今度。