4月25日

2003-04-25 vendredi

教育トップ100校WGの第二回ミーティング。
まだ文部科学省、大学基準協会からのお達しがないし、アプリケーション・フォームも分からないけれど、何を焦点にして申請を行うかについての合意だけはきちんとしておかないといけないので、もう一度ミーティング。
「新しい時代の教養教育のあり方について」という大学審議会の答申書の読み合わせを行い、文部科学省の「採点基準」をチェックする。
基本的に、この「トップ100校」というのは、日本の大学における「教養教育の再構築」を「促進」するための「ニンジン」である、ということを確認する。
つまり「トップ100校」というのは、各大学における教養教育の「アチーヴメント」を査定する「認知型」のプロジェクトではなく、研究拠点校に選定された少数の例外を除いた全国の大学に向かって「教養教育重視大学へシフトせよ」と命じる「遂行型」のプロジェクトなのである。
文部科学省の「教養教育シフト」の基本的な考え方は一見すると、文句のつけようがない。
特に、「身体知」や「型」の有効性に言及した部分や、伝統文化への配慮と異文化コミュニケーションを接続するロジックなどには、私だってけっこう感心してしまった。
なかなかやるな、と私は思った。
大学審議会が提言している「新しい時代に求められる教養教育」とは次の五点に集約される。

(1)自己を社会関係の中で位置づける能力
(2)他者、異文化への理解とコミュニケーション能力
(3)科学技術の万能への懐疑/効率や利潤より倫理性を優先する態度
(4)すべての知的活動の基盤となる国語力
(5)礼儀作法など「型」から入る「修養的教養」の再評価

「なかなかやるな」と思ったのは、基本的な構図がちゃんと「ポストモダン」してるからである。
ここには「日本人としての国民的教養」のようなものを実体として語る視点はもうない。
日本人に日本人性があるとすれば、それは他の社会集団との差異の網目のどの結節点に位置するか、という相対性の中でしか示されない。
しかし、だからといって文部科学省がポストモダン的な個のモナド化や「大きな物語」の消滅を受け容れるはずがない。
次にはこう書いてある。

「グローバル化が進む中で、他者や異文化、更にはその背景にある宗教を理解することの重要性が一層高まるなど、世界的拡がりを持つ教養が求められている。そのためには、幾多の歳月を掛けて育まれてきた我が国の伝統や文化、歴史等に対する理解を深めるとともに、異なる国や地域の伝統や文化を理解し、互いに尊重し合うことのできる資質・態度を身につける必要がある。」

これは実に巧妙なレトリックだ。
「他者理解」や「異文化理解」が必要であること、これに異論のある人はいない。
しかし、ここでいう「他者」とは何のことか・・・と思うと、それは要するに「宗教」を背景として構築され、「伝統や、文化、歴史等」を共有する「集団」のことなのである。ウェストファリア的な枠組み内的な「国民国家」および(国家を形成してはいないが)宗教・文化・言語などによって統合されている民族集団なのである。
「異教、異文化、異言語、異習俗を尊重しましょう」という命題はそのままくるりと反転して、それゆえにこそ、「我が国固有の宗教、文化、言語、習俗を尊重しましょう」という命題に着地する。
この文言における「他者」とか「互い」という言葉の基本単位は「民族集団」であり、「個人」ではない。「他者の他者性の尊重」はそのまま「我が国の固有性の尊重」の布石になっているのである。
これしてを私は「巧妙なレトリック」だと申し上げたのである。
自己を社会関係の中で位置づけるマッピングの能力も、他者とのコミュニケーション能力も、倫理性も、ことばの力も、修養的身体知も、私はいずれも大切なものだと思う。しかし、そのときに「関係」とか「差異」とか「他者」とか「言語」をになう主体が「個人」なのか「集団」なのか、その見極めは思いがけなく大切なことである。
そう考えて読み直すと、この答申書においては、実に巧妙なしかたで「集団」の水準の出来事と「個人」の水準の出来事が輻輳している。
例えば教養の第一定義はこうだ。

「新しい時代を生きるための教養として、社会とのかかわりの中で自己を位置づけ律してゆく力や、自ら社会秩序を作りだしてゆく力が不可欠である。主体性ある人間として向上心や志を持って生き、より良い新しい時代の創造に向かって行動することができる力、他者の立場に立って考えることができる想像力がこれからの教養の重要な要素である。」

みごとな作文だ。これに異議のある人はいないだろう。
けれども、この文中の「人間」を「国家」に置き換えて読んでみるとどうなるだろう。この文は次のように書き換えられる。

「新しい時代を生きるための教養として、国際社会とのかかわりの中で自己を位置づけ律してゆく力や、自ら国際秩序を作りだしてゆく力が不可欠である。主体性ある国家として向上心や志を持って生き、より良い新しい時代の創造に向かって行動することができる力、他国の立場に立って考えることができる想像力がこれからの教養の重要な要素である。」

そう、この作文の中で「個人」のありうべき姿として描かれているものは、実は「国民国家としてのニッポン」のありうべき姿とみごとに相同的なのである。

平和憲法によって「蚊帳の外」に置かれている状態から脱却し、国際社会の中で、「ふつうの国」として自律し、想像力を発揮して他国(おそらくアメリカ)の立場に立って、国際新秩序を形成すべくばりばり行動する主体的な国家。

ここで言われる「新しい時代の教養」の定義は、「主体的国家であること」「固有の伝統文化・歴史を尊重すること」「国語を大切にすること」「修養で品格を磨くこと」という、「ずいぶん古い教養」の定義を寸分変わらないことが分かる。(第三条の「科学技術の万能を懐疑せよ」を「西洋の物質文明に対する東洋の精神文明」という対比に置き換えると、もうほとんど「日本浪漫派」だ)

もう一度繰り返すが、私はこれが個人的教養について語られている限りは、特に異論がない。
しかし、個人の教養と、国家のふるまい方のあいだには水準の違いがあるということを忘れてもらっては困る。
国家や民族集団を「あたかも単一人格であるかのように」扱うのは、社会有機体説の論法だけれど、私はこの理説には利益より害毒の方が多いと考えている。
この教養定義は、「他者」を「他国家」「他民族」に検証抜きで同定しているという点から知れるとおり、個人の人格陶冶について語っているようでいて、国家論を語っている。あるいは国家と国民は(サイズが違うだけで)同型的な構築物であるという「イデオロギー」を語っている。
個人と国家の結びつきというのは、むずかしく複雑な問題だ。
乾坤一家であるとか八紘一宇であるとか「陛下の赤子」であるとか「家」や「家族」のアナロジーで国家を語ることがどれほど危険なことかは経験済みのはずである。
しかし、個人と国家をアナロジーでつなぐことも同じくらい危険なことである。私はそう思っている。
私は別に、「国家なんか関係ないよ、オレは個人として生きているんだから」というようなことを言っているわけではない。(「個人と国家」を気楽に分離できる人間と「個人と国家」を平然と同定する人間は、「個人と国家の関係は単純であるべきだ」と思っている点で同類である)
個人と国家の関係は単純なものではない。
それは曰く言い難く複雑で悩ましい。そこにはさまざまな種類の実利と幻想が絡み合っている。
だからそれについてはできるだけ丁寧に考え、ぼそぼそと語りたい、と私は思っている。

もう一つ言わせてもらえれば、一レヴィナシアンとしては、「他者」ということばが100%逆の意味で誤用されるのを見るのは哀しかった。
この文言の中で「他者」の他者性は、まさに「我が国」の不可侵性・永遠不変の固有性を基礎づけるためにのみ功利的に利用されているにすぎない。

「オレは君の妄想にケチをつけないから、その代わりに、オレが妄想に耽るのも放っておいてくれないか?」

「他者と共生する」というのは、そのようにシニックな態度のことではないと私は思うけど。