4月21日

2003-04-21 lundi

脈絡なく本を読む。
鹿島茂・井上章一『ぼくたち、Hを勉強しています』(朝日新聞社)に興味深いことが書いてあった。
「美貌の耐用年数」という微妙な問題についての井上先生のリサーチ(この人はほんとに変わったことを調べる人である)は次のようなものであった。

「女性の顔の価値はいくらなのか、それが裁判で争われた例があるのです。酔っぱらった客に殴られたホステスが裁判をしばしば起こします。アザが残ってしまって自分のホステスの仕事に差し支えるので、補償してくれという訴訟です。でも、60年代以前は全部却下になった。アザが残っても、酒をくんだり、喋ったりすることはできる。つまり、女の顔そのものは労働能力はない、と裁判所は判断していたんです。(...)
ところが、60年代から70年代かな、ホステスやモデルについては、それが認められるようになってきた。顔の労働能力を評価するようになったのです。
次に問題になるのは、美貌の耐用年数です。ホステスはそのルックスで何歳くらいまで高収入を得られるか、裁判所が判断するのです。それで、1973年に新潟地裁で、『ホステスがその容色をもって収入を確保することができるのは、三八歳を上限とする』という判決が出た。」

三八歳か・・・
女性の美貌の市場価値というのは、そのようにして歴史的に決められていたのである。知らなかった。
ところがもっと恐ろしいのは、次の文章。

「モデルのケースでは、『モデルの容姿のピークは一八歳から二五歳までで、以後漸次減退し、三五歳で消滅する』という判決が1983年に大阪地裁で出た」

「以後漸次減退」して、「消滅」って・・・美貌って、そういう「揮発性」のものらしい。
知ってました?
それが日本の判例の定めるところの美貌の「減価」の考え方みたいである。
しかし「消滅」はないよな。
これを承けて、鹿島教授がさらにアブナイ発言をする。

「鹿島:ぼくがこのあいだシミュレーションしてみたのだけれど、"32歳結婚説" というのが、今、女性のインテリ階級における一番一般的な趨勢じゃないかという気がする。(...)
なぜかというと、二二歳で大学を出るでしょう。大企業で三年お茶くみをやって、二五歳くらいでイヤになってしまう。そうするとなにかハクをつけたいというので外国に行って、もどってくると二八歳。いちおう、なんらかのキャリアがあるから、めでたく仕事に就いて、結婚のほうはどうしようどうしようと二九歳くらいまで迷って、とりあえずの機会は見送って次のチャンスを狙う。そうすると、自分に見合った年齢の独身男がだんだんいなくなるから、中年男と不倫とがでセックスの経験を積んで、三二歳で結婚するという例が多い。
井上:それはあいだに必ず中年男との不倫が入るのでしょうか。
鹿島:(キッパリ)入りますね。入らないはずがない。」

これを読んでちょっと「どき」っとした三十前後のインテリ女性はずいぶん多いのではないか。
統計では二二歳で企業に就職した女子学生たちの三割は三年以内に離職する。私の知る限りでも、新卒で入った会社に五年後に「まだ在職」という人は三割ほどしかいない。
そのあと、多くは「学校に入って資格をとる」か(鹿島先生ご指摘のように)「留学」する。
ただし、この留学は、たいていがそれまでの人間関係(特に母親との関係)をチャラにするためのものであって、向学心は副次的な動機である。
でも、留学から帰ってきても母親は相変わらずぴんぴんしているので、この「留学」はほとんどの場合「親離れの先延ばし」という意味しかない。
男女を問わず、いまの若者たちはそんなふうにして、「二十代の生き方」を先々まで「繰り延べする」ということにずいぶんとこだわりがあるように見受けられる。
それはどこかで「子どもである」ということと「若い」ということが混同されてしまっているからではないか。
親元から離れない、経済的に自立しない、資格を欲しがる、正社員にはなりたくない、縛られたくない、いつまでも学生でいたがる・・・というような傾向は、「子ども」でいれば、「若いまま」でいられるという幻想の効果ではないのだろうか。

しかし、改めて言うまでもないことだが、「子どもである」ということは、それ自体はたいへんに哀しいことである。(それは人からこずきまわされるだけで、誰からもレスペクトされない社会的ポジションのことなんだから)
「子どもである」ことはあまりに「哀しい」ので、それを補償するために、「若い」って素晴らしいよ」という「ことばのすり替え」をしたのである。
そんな嘘を真に受けて、「いつまでも若いままでいたい」と願う人は、他人からこずきまわされ、誰からもレスペクトされない「子ども」のポジションにみずから進んでしがみつくことになる。
困ったものである。
「若い」ということが価値ありとされるようになったのは、ほんのこの四十年ほどのことである。
私が子どものころ、昭和30年代が「若さ」の価値の急騰期だったのでよく覚えている。
日活映画を先頭にして、なんだか突然に「若いってスバラシイ」ということをこぞって人々が言い出したのである。
その前は、誰もそんなこと言わなかった。どちらかというと、みんな「早く大人になりたい」(@コニー・フランシス)と思っていたのである。
いま私たちの時代は再び「若さ」の価値が逓減する時期に入りつつあるように私には思える。
そんな時代に、「若さ」を確保するために社会的に不利なポジションにとどまり続けることを選んだ人々は、なんだか気の毒であると思う。

次に佐藤学『身体のダイアローグ』の中の谷川俊太郎との対談を読む。
この中で谷川がとても深いことを語っているので再録。

「詩のことばが作品として成立しているかどうかは、ほどんど直感で判断するしかないんだけれど、ひとつには、そのことばが作者を離れて自立しているかどうか。そのように自立したことばというのは、書いた人間の騒がしさから離れて、たとえどんなに饒舌に書かれていても、ことば自身が静かになってそこに在る。
逆に、たった三行の詩でも、騒がしい詩というのはあります。詩というのは、いわば芸がないと成立しないもので、ほんとうは、芸があって、ことばが自立しているほうが、実際には他者にはよく伝わるはずなんです。『自分はこんなに苦しんでいるだ』ということをいうだけでは、意外に他者には伝わらないものです。
いま、だれもが『オレが、オレが』と自分を表現しようとしていることが、たぶん騒がしさのいちばんの源なんじゃないでしょうか。
じゃあ、騒がしくないことば、沈黙をどこかに秘めたことばとはどういうものかを考えたときに、それは個人に属しているものではなくて、もっと無名性のもの、集合的無意識のようなところから生まれてくるものだと、ぼくは思う。」

前に岩下徹さんがダンスにおける「表現」と「表出」の違いについて語ったときに、「オレはこう思う、こういうことを言いたい」という「表現」の身体はうすっぺらで、「表出」というのは、そういうものじゃなくて、それ以外にありえない決定的な軌跡を描いて自律的に動く身体のことだ、というふうに説明してくれたことがある。
岩下さんのダンスは「沈黙をどこかに秘めたダンス」だった。
その道を究めた人のことばは、どこかで通じている。