4月20日

2003-04-20 dimanche

ひさしぶりに何の用事もない日曜日。がんがん仕事をする。
まず本部の入江さんから頼まれた『合気道探求』の原稿を書く。
『合気道探求』に拙文を寄稿させていただけるとは光栄の限りである。
しかし、このようなコアなメディアにいまさら「合気道と私」というような感想文のようなものを書くわけにもゆかぬ。
いろいろ思案したあげく、木田元と村上春樹の話を書く。
1700字の原稿を書き終えて、次は私信を二通。

一通は博士後期課程に入学した院生さんの書いたレヴィナス論へのコメント。
レヴィナスはとてもむずかしい。とてもむずかしいから「うーん、むずかしくて、よくわかんないよお」というところから出発するのが正しいのである。
「分からないという方法」というのは橋本治先生の名著であるが、実は「分からない」から始めるというのが現象学という方法なのである。(橋本先生のこの本はまるごと「現象学入門」としても読むことができる)
レヴィナスは「分からない分からない」と言いながらごりごり進んでいった人であるからして、あとを追う私らも「分からない分からない」と言いながらごりごり追っかけてゆくというのが正しい読み方なのである。下手に「分かる」とあとがない。
というようなことを申し上げる。

次ぎに藤田知子先生に論文のお礼と感想を書き送る。
「性差と言語」という正面直球勝負の論考であり、たいへん面白く読んだ。
言語と性差について考える。
これは論じるのがむずかしい主題だ。
「言語は性化されている」という言い方には、「性化される以前の、非-性的言語」とか「非-性的世界を性的に分節する性的主体」というものが実体的に措定されてしまうリスクがある。
「非-性的世界」からどうやって「性的主体」が出現してくるのか?
私の知る限り、それについて説得力のある説明をしてくれた人は(レヴィナス以外には)いない。
レヴィナスを除くと、「性化されていない世界」とか「性化されていない言語」とか「性化されていない人間」というのを仮説的にではあれ想定して、それが「汚された」という無意識的な話型で言語におけるジェンダー問題を論じるのが、私たちの時代のこの問題についての「常識的」フレームワークである。
しかし、このフレームワークでよいのか。
「性差なき社会の実現」とか「性差発生以前の世界への帰還」というような神話的なイデオロギーがそこから繁殖してくる可能性はないのだろうか。

性を基礎づけるのは性である。
性差の起源は性差の「外部」にも、性差の「以前」にも存在しない。
性差は言語と同じだけ古く、だから人間と同じだけ古い。
性化されていない言語も、性化されていない人間も存在しない。
私はそのように考えている。
そこから言語の問題を考えると、ずいぶん違った展望が見えてくるような気がするけど。