4月16日

2003-04-16 mercredi

村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む。
いま、この瞬間に日本中で、『キャッチャー』を読んでいる人間が何十万人かいると思うと、ふしぎな気がする。
文学作品を読んで、そういう「みんなとリアルタイムで享受している」というヴァーチャル同時代感覚を覚えるということって、ほとんどないからね。
すばらしい翻訳だ。
なにしろ村上春樹の「新作」を読んでいるとしか思えないんだから。
でも、ホールデンのニューヨークでの「地獄巡り」の、あのネガティヴなドライブ感は村上自身の作品にはちょっと見られない。
はじめはゆっくり、だんだん急坂を転げ落ちるように、ホールデンは狂ってゆく。
「狂ってゆく語り手」の一人称で書かれたテクストという小説の結構そのものは珍しいわけじゃないけど、これだけ主人公に共感してしまうとけっこうこの墜落感はコワイ。
そういえば、ディカプリオくんの『バスケット・ボール・ダイヤリーズ』は『キャッチャー』によく似ている。
でも、『バスケットボール』の主人公は「ドラッグ」と歪んだ家庭環境という外的要因のせいで崩れて行く。それに対してブルジョワのお坊っちゃんで、ハンサムで、知性的なホールデンは100%内的な理由で壊れてゆく。
どっちの壊れ方が怖いか、といったら、もちろんホールデンの方が怖いよね。
高校生だったウチダは「デリカシーの受難」という説話構造がキライだったので、(『トニオ・クレーゲル』とかさ)『キャッチャー』にもちょっとうんざりして、それっきりだったんだけれど、四十年たって読み返してみたら、これがみごとな「アメリカン・ホラー」だったんだよね。
いや、参った。(と、すでに文体が村上訳サリンジャーに影響されているんだな、これが)

NTTの Inter communication という雑誌の取材があって、2時間ほど身体論についてのインタビューを受ける。
武道と文学と哲学は「生死の境界線」での「ふるまい方」を主題とする点が共通しているという説を語る。
「死ぬ」というのが「隣の家に行く」ような感じになること、それが武道においてはとてもたいせつなことだ。
それは必死に武道の稽古をして胆力を練ったから死をも恐れぬ精神に鍛え上がったということではない。(そんなことは残念ながら起こらない)
話は逆で、「生死のあわい」におけるふるまい方について集中的に探究する人間は、自分がどれくらいその「ふるまい方」に習熟したのかを武道を通じて「チェック」することができる、ということなのだ。
「死ぬ」というのが「ちょっと、隣の家に行くような」感じになることは子供にも起こる。
そういう子供はすごく危険な存在だ。(自分にとっても周囲にとっても)
だから、子供にはまず死を怖れさせる必要がある。
その教育の甲斐あって、私たちはみんな死を怖れるようになる。
でも、成熟のある段階に来たら、死とのかかわり方を「元に」戻さないといけない。
「元」というのは、死者は「そこにいる」という感覚を取り戻すことだ。
ある種のコミュニケーションマナーを介するならば死者と交感することができるという、人類の黎明期における「(その後抑圧された)常識」を回復することだ。
別にオカルトの話をしているわけではない。
これが「常識」なのだ。(ただし「その後抑圧された」)
その「常識」を教える社会制度はもう存在しない。
武道と文学と哲学はそのためのレアな回路だけれど、「そういうふうに」思って武道の稽古をしたり哲学書を訳したり小説を読んだりしている人は、もうあまりいない。
社会学者の書いたものが面白くないのは、あの人たちは「生きている人間」の世界にしか興味がないからだし、宗教家の書いたものが面白くないのは、あの人たちは平気で「あっち側」のことを実体めかして語るからだ。
「こっち」と「あっち」の「あわい」でどう心身を捌くか、ということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。
私がエマニュエル・レヴィナスと村上春樹を「同じように」読むのは、そういう意味なんだけどね。