4月14日

2003-04-14 lundi

村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が刊行されたので、さっそく買い求めにジュンク堂へ行こうとしたら、西宮北口の駅構内の書店にすでに山積みされていた。
すごいなあ。
一日で何十万部くらい売れたのであろう。
「初日売り上げ記録」で白水社史上最高をマークしたのではあるまいか。
村上訳の『ギャツビー』も満都の読者が待望しているものであるが、これはおそらく発売初日でミリオンセラーを記録するであろう。
活字離れとか言われているけれど、「いざとなったら文学くらい読むわよ」という潜在的な読者はこれだけ大量におられるのである。
その掘り起こしに成功していないのは、書く側の責任である。
「読者がバカだから」というような不毛な言い訳をするのは止めよう。
そりゃ、たしかに「バカ本」は山のように出ているし、それを買って読む読者もやまのようにいる。
しかし、読者だって、素晴らしい本だ、と思って読んでいるわけではない。
ろくでもない本だけど、ま、こんなんでも読むか・・・という醒めた気分で読んでいるのである(と思う)。
村上春樹訳『キャッチャー』の快挙によって、今後さまざまな「旧譜再販」ブームが起こる、とウチダは予測している。(すでにインターネット上では山形浩生さんの「杉田玄白プロジェクト」が始動しているが)
他にも「じゃあ、『ドンキホーテ』を新訳で出したい」とか「『ボヴァリー夫人』を改訳したい」とか言い出す若い文学者が出てくるとよいのだが。
私自身は『異邦人』の新訳を出したいと思っている。
原文のあのぐいぐいしたグルーヴ感を日本語に載せてカミュを読んでみたい。
その『キャッチャー』を買ったら、おまけに村上春樹x柴田元幸の対談の載った「出版ダイジェスト」をもらった。
この中でとても重要なことを村上春樹は書いている。

極端なことを言ってしまえば、小説にとって意味性というのは、そんなに重要なものじゃないんですよ。大事なのは、意味性と意味性がどのように呼応し合うかということなんです。
音楽でいう「倍音」みたいなもので、その倍音は人間の耳には聞き取れないだけれど、何倍音までそこに込められているかということは、音楽の深さにとってものすごく大事なことなんです。(...)
温泉のお湯につかっていると身体が温まりやすいのと同じで、倍音の込められている音というのは身体に残るんです。フィジカルに。でも、それがなぜ残るかというのを言葉で説明するのはほとんど不可能に近いんです。
それが物語という機能の特徴なんですよね。
すぐれた物語というのは、人の心に入り込んできて、そこにしっかりと残るんだけど、それがすぐれていない物語と機能的に、構造的にどう違うのかというのは、ちょっと言葉では説明できない。

村上のこの発言の中の「小説」を「映画」に置き換えると、これは私が『映画の構造分析』で言おうとしていたこととほとんど変わらない。
すぐれた物語は「身体に効く」。
ほんとにそうなんだ。
「物語は身体に効く」だから、私たちは「物語を身体で読む」。
三浦雅士や橋本治や養老孟司も、それと同じことを別の言葉で伝えようとしている(たぶん)。
でも、それ以外には、身体と物語の関係をきちんと言語化しようとしている批評家はとても少ない。
まだ読んでいないけれど、この仕事を通じて、村上春樹は日本の文学(とくに批評のあり方に)に激しい衝撃を与えることになると思う。
それは前衛性とか政治意識とかエロスとか文体がどうたらとかいう水準のことではなく、物語を読むときの「読み手の構え」そのものを変えてしまうような一撃になるような気がする。

村上春樹は「翻訳」をした。
それは彼自身の言葉を使えば「他人の家の中にそっと忍び込むような」経験である。
同じ翻訳者として、この感じは私にはよく分かる。
それはいわば「自分の頭」をはずして、自分の身体の上に「他人の頭」を接ぎ木するような感じのする経験である。
自分の頭をもってしては他人の頭の中で起きていることを言語化することができない。
けれども、自分の身体を「他人の頭」に接続して、そこから送られる微弱な信号を身体的に感知し、別の記号体系に変換することはできる。
身体が聞き取っているのは、語や意味ではなく、ある種のヴァイブレーションである。
そのヴァイブレーションを言語的に分節するのが翻訳という経験である。
村上春樹は同時代の作家の中で例外的に大量かつ長期的に翻訳を行ってきた作家である。
おそらく、それによって彼は、物語が発信する、可聴音域を超えた「倍音」の響きを聞き取ることのできる身体感受性を洗練させていったのだと私は思う。