4月13日

2003-04-13 dimanche

「男女が性別にとらわれることなく、能力と個性を発揮できる社会の実現をめざす」男女共同参画社会基本法(99年制定)の理念にもとづいて、地方自治体は今条例作りを始めているところだが、全国の議会では「男らしさ女らしさ」の復権や「専業主婦」の尊重を盛り込むべきだという保守系の議員からの反論が続出して、条例制定が難航している。
具体的な施策として、公務員の何%は女性でなければならないというようなものが出てきたら抵抗はあるだろうと思ったけれど、文言をいじるだけの段階でこれだけ激しい反対が噴出するとは思わなかった。
これについて宮台真司は次のようなコメントを寄せている。

「いま起きているスイングバック(揺れ戻し)は『新しい歴史教科書をつくる快』の動きと合わせて説明できる。東西冷戦の終結、バブル経済の崩壊を経て、援助交際、出会い系サイトの流行・・・これまで人々の行動を秩序づけてきた道徳や価値が共有されなくなり、年長者には日本社会が無規範な混乱状態(アノミー)に陥っているように見える。
従来の常識が通用しないから、そんな彼らの寂しさを埋めるのが国家や共同体、歴史、伝統といった『大いなるもの』だ。『家族の価値を見直せ』『男らしさ女らしさを否定するな』といったたぐいの主張は出るべくして出たもので、予想の範囲内。言論の世界では決着済みだ。(...)」

私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。
どうしてなのかしらないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである。
今日のコメントを読んで、その理由が少し分かった。

宮台は「分かっている人」なのである。
それが私が彼に共感できなかった理由だったのである。

宮台は「私には全部分かっている」という実に頼もしい断定をしてくれる。

「事態がこうなることは私には前から分かっていたのです。いまごろ騒いでいるのは頭の悪いやつだけですよ」

冷戦の終結も、バブルの崩壊も、性道徳の変化も、家庭の機能不全も、教育システムの荒廃も・・・宮台にとってはすべて読み込み済みの出来事なのである。それを見て、秩序の崩壊だアノミーだ末世だとあわて騒ぐのは時計の針を逆に回そうとしている愚物だけなのである。
実に明快だ。
宮台は「知っている」ということで自らの知的威信を基礎づけている。「知っている」ということが知的人間の基本的な語り口であるとたぶん思っている。
私はそういうふうに考えることができない。
「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。
「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする・・・」と螺旋状態にぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な様態ではないかと私は思っている。
特に、いま宮台が問題にしている性差の問題について、私はほとんど何も知らない。
分かっているのは、

(1)それがたいへん複雑で分かりにくい問題であること
(2)この複雑で分かりにくい問題を「簡単で分かりやすい問題」だと勘違いする人々のもたらす害毒の方が、問題の複雑さからもたらされる害毒より大きいこと

この二点である。
「男は男らしくしろ、女は女らしくしろ、昔からそう決まってるんだ」というふうに性差の問題を単純化する人間は、ふつう性差の問題をいっそう紛糾させる方向にしか関与しない。
またその逆の「ジェンダーは、父権制イデオロギーの作り出した擬制にすぎない。よって廃絶すればよろしい」というふうに問題を別のしかたで単純化する人々も、問題をひたすら紛糾させるだけである点については前者に変わらない。
この二つのタイプの知性は、「性差というのは単純なものだ」という信憑において、精神の双生児である。
どうして、「性差の仕組みは単純だ」と彼らが思いこめるのか、その理由が私にはよく理解できない。
たぶん「世の中は実はたいへん単純で、私はその世の中の仕組みが理解できている」というふうに言い立てると人から「賢い人だ」と思われると思っているのだろう。(どうして、「人から『単純な奴だ』と思われる可能性」については吟味しないのだろう?)
「男女共同参画社会」とを提言する人々も、それに反対する人々も、「性差の仕組みは単純なものであり、私たちは性差の仕組みについて熟知している」という同じ前提に立っている。
その点では、頭のつくりがたいへんに単純な方々である。
私はそのような前提を共有しない。
私は性についてよく知らない知らないからだ。
私の意識は性化されており、「私の意識は性化されている」という当の言明そのものが「性化された意識」によって発されている以上、「私」も「意識」も「性化」も、およそこのセンテンスに含まれるすべての概念はすでに「性化」されている。
だから、そんな私に性差の仕組みがよく分かるはずがないのである。
かろうじて、それが非常に複雑怪奇なメカニズムであり、単純化してもあまりいいことはないんじゃないかしら、ということだけは分かる。
複雑な問題に接するときの基本のマナーは「できるだけ複雑さを温存し、単純化を自制する」ということである。そう私は考えている。
だから、性差の問題や親族制度の問題や喪の儀礼の問題について考えるときは、結論を急ぐまい、という自戒をつねに忘れないようにしている。
その自戒を確認した上で、「男女共同参画社会」という論件について、意見を申し述べたいと思う。

「性による社会的役割分担」がしばしばろくでもない結果を伴うことを私は認める。
しかし、「じゃあ、止めよう」というところに短絡するのはどうかと思う。
そもそも短絡できるものなのか。
「性による社会的役割分担」がなぜあるのか、ということを性的分業廃止論者たちは十分に吟味したのだろうか。
人類が共同体を作って暮らし始めて数十万年経つ。
その間に、どれほどの数の個体が生き死にしたか、数えられないけれど、人類学が教える限り、その中に「共同体」「歴史」「伝統」そして「性による社会的役割分担」をもたなかった社会集団は一つとして存在しない。
数十万年のあいだ、そんなふうにずっとあって、いまでも世界中であるものを「もう要らない」と言うには、それなりの論拠が必要だろう。
社会はつねに「より正しい方向」に進化しているのであるから、古いものは棄ててもよいのである、という単純な進歩史観だけでは説得力があるまい。
「共同体」や「歴史=起源についての物語」や「伝統」や「性差」のような社会制度が「なぜ」存在するようになったの、その起源を私たちは知らない。(とレヴィ=ストロースは書いている。私も同意見)
しかし、そのような社会制度を持った集団「だけ」が今に生き残っているという事実から推して、そのような制度には何か重大な意味があると考えた方がいい。
宮台によれば、そのような「大いなるもの」はもう要らないらしい。
どうして要らないかというと、とりあえずは、そういうものがあると「仕事」をする上で邪魔だからだ。(それ以外にどんな理由があるのか、誰か知っていたら教えて下さい)
「仕事」というのは要するに「高い賃金、高い社会的威信、大きな権力、多くの情報」というようなものを人間にもたらす「機会」のことである。
その「機会」を最大化すること、それが性的分業廃止論の目的である。
宮台の表現を借りて言えば、「賃金、威信、権力、情報」というのは「小さなもの」である。言い換えれば、「プライヴェート」なものである。もっとありていにいえば「ゼロサム」のもの、つまり、「誰かから奪い取らなければ、所有できないもの」である。
だって、そうでしょ。

「全員が高賃金である社会」などというものは存在するはずがない。
ある賃金が「高い」と感知されるのは、「低い賃金」で働いている人間が傍らにいる場合だけだからだ。

「全員が威信を有する社会」も「全員が権力を有する社会」もありえない。
威信や権力というのは「威信の前にひれ伏し、権力にすりよる」他者なしには成り立たないからだ。

「全員が多くの情報をもつ社会」もありえない。
情報とは「より多く持っている者」と「より少なく持つ者」のあいだの水位差のことだからだ。

つまり、「小さなもの」というのは、「『他の誰かがそれを持たない』ことによってしか所有することができないもの」のことである。
だから、それは実定的な財ではない。
幻想である。

いまの時代の流れは、社会的な財のうち、「大きなもの=みんなが共有するもの」を最小化し、「小さなもの=個人がゼロサム的に占有するもの」を最大化する方向に向かっている。
そういう方向に進むことを「進歩」であると多くの人は信じている(たぶん宮台も)
でも、私はそういうふうには考えない。

進歩することと単純化することは違う。
変化することと破壊することも違う。

人間というのは、とても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ。
その扱いはもっと慎重であるべきだと私は思う。
話を簡単にすることを急ぐ人はしばしば、話を簡単にしたせいで、話を収拾のつかない混乱のうちに陥れることになる。(つねづね申し上げていることだが、「話を早くする」ことと「話を単純にすること」はまったく違うことである)

それは「男女共同参画社会」論にもそのままあてはまるように私には思われる。
「男女共同参画社会」というフレームワークでものを考える人は、性的分業を結果的に強化することにしかならないからである。
考えれば誰にでも分かる。
このような議論の場では、「女性性とは何か?」「だいたい『男らしさ』とは何のことなのか?」「真に性的差異から解放されるとはどういうことか?」といった、決して合意に達するはずのない議論が終わりなく繰り返されるはずだからである。
そしてその議論の中で、おそらくもっとも頻繁に口にされるのは、「そういう発言をしているあなたは男性なのか女性なのか?」という問いかけであろう。
というのは、男性が「性的分業は廃絶すべきである」と主張した場合、それは「懺悔」と「権利放棄」の語法で語られねばならないし、女性が発言する場合は「告発」と「権利請求」の語法で語られねばならないからである。
同一の政治的主張を行うときに、性が違うと語法を変換しなければならないというルールを「前提」にしている限り、この政治的主張は繰り返されるたびに、制度としての性差は強化されることになる。
前にも書いたけれど、笑い話を一つ。

「学歴による差別を廃絶する会」というものがある。
会員たちは集まっては「学歴がいかに深く自分たちの人格形成に与り、社会的活動の不公平な評価に結びついてきたのか」を仔細に報告し合うのである。
ただし、学歴がその人の人格形成に与る仕方は人それぞれ違う。
「東大出」の人間が学歴によってスポイルされる仕方と、「中卒」の人間が学歴によって損なわれる仕方はまるで違うからだ。
だから、この会では全員がその人の学歴についてのコメントがどういう「文脈」で読まれるべきかを示すために、「最終学歴」を大書したプレートを胸に着用することを義務づけられている・・・・

「男女共同参画社会」は私にはこの話を思い出させる。
たぶん、この「参画社会」を論じる場では、ほかのどのような公共の空間よりも多く「男」「女」「性差」という語が口にされるだろう。
そして、男女共同参画社会への賛否を問わず、いずれの立場からも、「性差がどのように個人の人格形成に深く与っているか、どれほど決定的にそのひとの思考と感受性を規定しているか」が繰り返し繰り返し確認されることになるだろう。
そこでは「告発する女性」と「自己弁護/懺悔する男性」の「性的役割分業」がほかのどのような公的空間においてよりも強固に制度化されることであろう。
性差について言及するということは、どのような文脈においても、性差を制度的に強化する方向にしか作用しない。
これは私の経験的確信である。
もし実質的に性差を廃絶することをほんとうに望んでいるのなら、「性差については語らない」というのが、一番効果的な方法だろうと私は思う。(学歴の差別的効果を廃したと思ったら、「学歴について決して言及しない」というのが一番効果的であるように)。
しかし、私の意見に賛同してくれる人はほとんどいない。
もしかすると、人々は「性差の廃絶」を声高に論じるという仕方で「性差への関心を高め、性的分業体制を強化する」道を無意識的に選んでいるのかも知れない。
だとすると、宮台真司のような人こそ、人類学的叡智を無意識的に体現した、模範的人類なのかも知れない。