4月12日

2003-04-12 samedi

バグダッドでの略奪の映像を見ながら、あるフランス人の言った言葉を思い出した。
彼によると、イスラム教徒はあまりに「正しく」「聖なる」存在であろうと渇望するために、結果的にそうなれないでいるという。
なるほど、そんな気もする。
イスラムの法はたいへんに厳しいものである。
原理主義的な国では、わずかな窃盗で腕を切断する、というような苛酷な刑がいまだに課されている。
それは「盗みをしてはならない」という戒律は人間社会の成立の基幹をなしている、と彼らが考えているからである。
これは正しい。
しかし、その戒律を徹底させるために、万引きを咎めて、腕を切り落とすというのは、「正し過ぎる」ようにも思われる。
というのは、その結果、この苛酷なペナルティへの「恐怖」に基礎づけられて、倫理的にふるまうことが「外から」強制されるという体制が出来上がるからである。
だが、倫理的にふるまうことの動機づけが、つねに「外部」から「恐怖」の情動をともなって到来するということが続くと、人間はどういうふうになってしまうだろう。
そのようなかたちでの「倫理化」になじんできた人間は、「恐怖の権力」が実定的に機能しているときには、ひたすら恭順のさまを示し、ひとたび「罰する機能」が停止するや、倫理的にふるまう外的な動機づけを失ってしまう、ということにはならないだろうか。

略奪の光景をTV画面で眺めながら、そんなことを考えた。
この人たちは「貧しい」から、久しく一部特権階級に「搾取されてきた」から、という理由でこの略奪を正当化することができるのだろうか、と考えた。
そういう「左翼的」なことを言う人もいるかもしれない。
私は違うと思う。
だって、画面を見る限り、彼らが官庁から運び出していたのは、ロッカーとか机とか冷蔵庫とか壺とか、まるで生活財として価値のなさそうなもの、バザールにもっていっても二束三文にしかならないようなガジェットばかりだったからだ。
彼らは階級的正義を執行すべく権力者の財産を奪還しているわけではない。(略奪されたのは特権階級が占有していた巨大な財産にくらべたら、ゴミみたいなものだ)
それどころか、彼らと同じように貧しい同胞の店さえ襲っている。
ということは、あの略奪は生活財確保のためのものではなく、フセイン大統領の銅像の引き倒し同様、「象徴的」なふるまいと解釈すべきだろう。
「腕を切る役人がいないなら、わしらもうがんがん窃盗するけんね」
彼らはそう叫んでいるのだと私は思う。
彼らはあの無価値なゴミのようなものを汗だくになって運びながら、天に向かって「私は神を恐れない」と宣言しているのである。
そして、自分たちがそのような涜神的なふるまいを記号的に実演していることに彼ら自身はおそらく気づいていない。
彼らはこれまであまりに長きにわたって「正しくふるまうこと」を強制されてきたために、「正しくふるまうこと」にたぶんうんざりしてしまったのだ。
その気分は何となく分かる。
私はイスラム教というもの知らないし、イスラム教徒の知り合いもいない。
しかし、書物やメディアで接する限り、イスラムの立場から発言する人にいつでもある種のかすかな「違和感」を覚える。
それは、彼らの言うことがいつも「やたらに正しい」ということである。

私の講読している朝日新聞にも最近アラブ諸国のジャーナリストがよく寄稿している。
それらひとつひとつはたいへん正しいことが書いてある。
誰ひとり反論できないような正しいことが書いてある。
その中に、「わしらがアホやけん、こげなアホな事態になってしもうたんや。他人責めてもしゃーないやんか。自分のケツは自分でふかな」というようなワイルドな口調のものを読んだ記憶が私にはない。
もちろん、私はそのような関西弁的セルフパロディが「正しい」と申し上げているのではない。
それは「正しくない」。
しかし、批評性というのは「正しさ」だけによっては担保されない。
それは「正しくないこと」を「正しくない」と知りつつ述べるという形でも示されることがある。

私の見るところ、かの社会では「正しくない言説」を涼しく許容するという知的習慣がないように見受けられる。
たとえば、ラシュディはアラーの出て来る風刺小説を書いただけでイスラム法廷で「死刑」を宣告されたし、その小説を訳した日本人学者は刺殺されてしまった。
その結果、私たちが今目にするイスラム教徒の言動は、「100%政治的に正しい言説」(通常「告発」と「憤激」というかたちを取る)と、「略奪行為とテロ」(これもまた通常「正義の執行」を看板に実行されている)に二極分解している。
その「中間」におそらくはひろがるはずの無限のグレーゾーン、「人間がひごろ営んでいる、あまり正しくないこと」を生々しく言語化する企てだけが、なぜか私たちの耳には届かない。
私が「イスラム」という言葉からイメージするのは、「神への絶対的帰依」と「暴力と無秩序」の二極に引き裂かれていながら、そのつどつねに「正しい」人々の像である。

二週間前のTVの画面では、撃ち落とされた米軍の無人偵察機を囲んだイラクの人々がスリッパでぺこぺこと機体を叩いて、愛国の至情を誇示していた。

一昨日の映像では、フセイン大統領の肖像画を囲んだイラクの人々がスリッパでぺこぺことフセインの顔を叩いて、愛国の至情を誇示していた。

この人たちは「別人」なのか「同一人物」なのか。
私には何だか「同一人物」に見える。
彼らは、つねに「正義」と共にある人々である。
私は「つねに正義と共にある人々」の頭の悪そうな顔を見るとだんだん気分が悪くなってくる。
その点で、この戦争の戦勝国と敗戦国の国民は私に同じ印象を与える。